教室の扉が閉まり、廊下から聞こえていた足音も消えていく。教室はしんと静まり返っていて、佳乃と剣淵の二人しかいないのに息苦しさを感じる場所になっていた。

 佳乃の予想通り、気まずい。同じものを制作しているため近くにいるのだが互いにしゃべることはない。剣淵はこの二人きりに動じていないように見え、それに合わせようと佳乃は平静を保つように努めた。

 刀の制作はもう少しで終わるところまできていた。佳乃が作っている刀身部分は、刃と棟の間に鎬《しのぎ》もどきの線を書き込めば終わる。剣淵が担当している柄や鍔も色を塗って紐を貼れば終わりだ。
 だが最後には二人協力しなければならない作業がある。各パーツを組み合わせなければいけないのだ。

 このまま一言もしゃべらずに作業を終えるということは無理だろう。それまでになんとか気まずさを解消したいところである。

 剣淵に話しかけるべきか、それともこのまま無言で過ごすべきか、思考を巡らせる佳乃だったが先に口を開いたのは剣淵だった。

「……忘れろ、って言っただろ」

 それは呆れていることが伝わってくる口調だった。

「い、言ってた……けど」
「覚えているならいますぐ実行しろ。俺と一緒に残されるからってわざわざ変な反応すんな」

 そっけない物言いは、まるで剣淵はキスのことなんて忘れたのだと告げているようだった。確かに忘れろと言ってはいたが、佳乃にはできなかった。こうやって放課後二人になれば、嫌というほど鮮明に思い出してしまう。

「早く手を進めろ。さっさと終わらせて帰るぞ」

 口を閉ざし、作業を再開する。
 忘れるなんてできないと思っているのは佳乃だけ。それが悲しくて、でも正直に口にすれば剣淵に意識してしまっていると伝えてしまうようで嫌だったのだ。

 刀身に鎬の線を書きこむ。妙な気持ちになっているからか、線が歪になってしまったが遠くから見れば目立たないだろう。
 その仕上がりを確認していると、佳乃に背を向けて作業していた剣淵が呟いた。

「……悪かったな。あんなことして」
「あんなこと?」
「二回、お前にキスしただろ。それを謝ってんだよ」

 いきなり謝られるなんて思ってもいなかったのだ。予想外の言動に振り返る佳乃だったが、剣淵はこちらに背を向けたまま。だが作業の手は止まっているようだった。

「……なんであんなことしたんだろうな、俺」

 忘れろと言っておきながら、剣淵こそ忘れていないのだ。言い返してやりたいのにその背に迷いがみえて、言葉をかけることができない。

「お前にこんな話をするのもおかしいけど、理由がわからねぇ。頭がおかしくなって、見えないものに体を操られているみたいだった。気がついた時にはお前が目の前にいて……キスしてしまったんだとわかった」

 これは懺悔だ。佳乃に背を向けているからこそ素直に打ち明けられる、剣淵の苦しみ。
 いま、佳乃は二回もキスをしてしまって傷ついた剣淵の心に触れているのだ。体温を奪っていくほど冷たく震え、それは雨の日に似ている。

 剣淵は少しためらいながら、続けた。

「……なんつーか、おかしな感覚。変な呪いにかかった気分だよ。お前にキスする呪い、なんてくだらねぇものがあんのかよって話だけどな」

 自嘲気味に呟いたその言葉は当たっているのだ。ただし呪いにかかっているのは剣淵ではなく佳乃の方である。

 あのキスはすべて佳乃の呪いが関係しているのだと伝えたらこの苦しみは和らぐのだろう。でも言ってしまえば、いまの距離は崩れてしまう。嫌いなやつだが、会話をしたり雨の日に助けてもらったりと心地の良い距離は築けている。それが壊れて、きっと剣淵に呪いのことを責められるだろう。

 佳乃が黙っていると、剣淵が振り返った。

「お前はどう思う?」
「わ、私……?」
「お前にキスしてしまうくだらねぇ呪いがあると思うか?」

 夕日に支配された教室で、佳乃をじいと見つめる双眸。それはすがるようなまなざしだった。佳乃にキスをしてしまったことを後悔し、呪いだなんて非現実的なものを想像してしまうほどに悩んだのだろう。

 剣淵の問いに対し、答えは二択である。

 『呪いは存在する』と真実を答えれば、佳乃にかかった呪いのことを説明しなければならない。そしていまの関係に変化が起きるだろう。
 『呪いは存在しない』と答えてしまえば、佳乃はこの呪いのことを隠すことができる。だがそれは嘘であり、呪いの発動に繋がってしまうのだ。

「ほ、ほら! そんな話いいから、早く制作進めようよ」

 選択できず、佳乃は逃げるように背を向けた。そして答える気はないとばかりに絵筆を持って作業に戻るふりをした――のだが。

「……話、終わってねーぞ」

 ぐい、と強く手を引っ張られて佳乃は再び剣淵に向き合うことになってしまった。鋭く、しかし助けを求めるような視線を全身に浴びる。
 手は掴んだまま。佳乃が答えるまで逃がさないということなのだろう。

 佳乃は瞼を閉じた。そして考える。どちらの選択が最善か。剣淵に呪いのことを明かすべきなのか。


 ただ。剣淵に掴まれた手が熱かったのだ。

 そういえば日曜日も、剣淵が佳乃の手を掴んだ。それは今日と同じ熱を帯びていて心地よく、ずぶ濡れになっても待ち続けている佳乃を案じ、救ってくれた手だ。