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 ある時から佳乃は呪いに人生を狂わされていた。

 嘘をつけばその罪を罰するかのようにキスをされる。片思いしか知らない女子高生にとっては最悪な呪いでしかなかった。
 嘘をつけば、呪いは発動する。佳乃が抵抗しようがしまいが呪いからは逃げられず、唇を奪われる。

 何度も呪いを味わった。テストの点数がよかったと嘘をついたことがある。その時は、嘘を見抜いた母親に夕飯の冷奴を顔面に投げつけられ、唇に当たった。呪いが発動した結果だ。
 またある日。冷蔵庫に入っていたプリンを食べてしまった佳乃は、母親に叱られることを恐れて食べていないと嘘をついた。すると、突然子猫が窓ガラスを打ち破って侵入し、佳乃の顔をひっかき唇を舐めていった。これも呪いによるものだ。
 このように豆腐や子猫が対象ならばいいのだが、キスの相手が人間となることもある。水泳の授業中、見栄を張って泳げると大嘘をついてしまったがために、溺れたと勘違いした体育教師から人工呼吸をされた。
 甘酸っぱいファーストキスを夢見る乙女ではない。佳乃のファーストキスは人工呼吸である。その味はレモンとは程遠い、プール独特の塩素臭。

 その時からこの呪いを疎んじてきた。最悪な人生だと泣いた夜もある。だがこれも全て、今日のために繋がっていたのだ。


 伊達との約束は放課後、生徒会活動の終わる頃だった。簡単な会議だから時間はかからないと言っていたが、時計の針が進むにつれ教室に残っている生徒は佳乃だけとなった。
 暇をつぶしながら伊達を待つ。教室の窓からオレンジ色に染まった光が差し込み、温かさと眩しさに頭がぼんやりとしてきた時、教室の扉が開いた。

「伊達くん!」

 現れた人物こそ、佳乃が想い続けている伊達享である。彼は教室に一人ぽつんと残っていた佳乃を見るなり、申し訳なさそうに「待たせてごめんね」と言った。

 いよいよ、伊達がきたのだ。立ち上がろうとするだけで足が震えるほど緊張していた。それでも平静を装い、ノートを差し出す。

「貸してくれてありがとう。助かったよ」
「僕でよければいつでも言ってね。僕のクラスの方が授業進んでいたから、三笠さんを助けることができてよかったよ」

 甘く整った顔をくしゃりと崩して爽やかに微笑む。そんな伊達の姿に、見惚れてしまいそうになる。

 佳乃よりも高い背、大きな手。この教室に二人しかいないからか、距離の近さを意識してしまう。手を伸ばせば届きそうな場所にいる、人気者の伊達享をひとり占めしているのだ。胸が高鳴り、呼吸も忘れてしまいそうなほど、夕暮れの空気に溺れていく。

 視線は伊達の唇に向けられていた。本当はもっと会話してから実行に移すつもりだった。話す内容だって考えていたというのに、伊達が来たことで心が急いてしまったのだ。

 嘘をつけば伊達くんとキスをする。ずっと憧れていた、王子様とのキスシーンがもうすぐ。

 頬を赤く染めながら、佳乃は言った。

「雨が降ってるね」

 意気込んだもののなかなか嘘が浮かばず、出てきたのは天気の嘘だった。発想力のなさに自ら呆れつつ伊達を見れば、困ったように首を傾げていた。

「え? 雨は降ってない……けど」

 伊達はそう言った後、一歩踏み出した。

「……ねえ、三笠さん」

 じわじわと歩み寄ってくる伊達に普段の凛々しさはなく、瞳の奥がぼんやりと熱に揺れている。

 佳乃の机に手を置くと、息づかいさえもわかりそうなほど近くに顔を寄せた。
 いよいよ、だ。念願の王子様とのキスシーンがくる。佳乃は生まれて初めて、呪いに感謝を捧げた。

 だが、呪いというのは予想を裏切ることがある。呪いよありがとう、と心で呟き終えた瞬間、扉の開く音が聞こえた。

 予想だにしなかった音に、佳乃も伊達も振り返る。あと数センチまで近づいていた唇も一気に離れていった。

「お前……が……」

 乱入者によって二人だけの空間は打ち破られた。佳乃も伊達も呆然としているのをいいことに来訪者はずかずかと教室に入り込んでくる。それは生徒でも先生でもない、他校の制服を着た初めて見る男だった。

 男は早歩きで佳乃の元へ向かってくる。そして、伊達を押しのけ――

「え? ちょっと待っ……!」

 最後まで言うことはできなかった。伊達よりも大きな体が影を落とし、とっさに目を瞑れば唇が柔らかなものに塞がれた。それは熱を帯びていて、柔らかさの向こうに息づかいを感じる。

 おそるおそる目を開けてみれば、佳乃の視界いっぱいに乱入者がいた。ぞわりと肌が粟立つ。この男を佳乃は知らないというのに、キスをされているのだ。

「み、三笠……さん?」

 唖然とする佳乃が聞いたのは、伊達の声。それをきっかけにゆるゆると思考が動き出す。

 呪いだ。佳乃はキスをされているのだ。相手は知らない男。

 そして最悪なことに伊達がいる。他の男とキスをしている場面を、片思いの人に見られてしまっているのだ。

 状況を理解し、絶望感が佳乃を襲う。後悔しても時間は戻らず、唇に焼き付いた感触も消えることはない。


 呪いはやっぱり最悪なものだった。二度と感謝なんてするものか。
 三笠佳乃、高校二年生の春。正直者タヌキの、嘘と恋の日々が始まる。