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 放課後。佳乃は剣淵の家にいた。

 あれから何度か来たのですっかり慣れてしまった。放課後や休みの日にきて二人で勉強をしたり、料理スキル絶望な剣淵のためにご飯を作っていったりと、よく遊びにきていた。

 相変わらず物の少ない部屋だったが、佳乃がちょくちょく来るようになってからは様々なものが増えた気がする。特にキッチン周りは増えた。

「……あ。新しいコーヒーがある」

 その日も部屋に入るとキッチンカウンターの上に、見たことのないインスタントコーヒーの瓶が置いてあった。

「姉貴が持ってきた。勝手に飲んでいいぞ」

 いつだったか。剣淵の姉が『次はコーヒーを用意しておくから』と言い残していったことがあったが、次に佳乃がこの部屋に入った時、宣言通りにコーヒーの粉が置いてあった。その時にはもう剣淵と佳乃は付き合っていたので、顔を見合わせて笑ったものだ。

 以降、剣淵の姉は佳乃の存在に気づいたのだろう。料理がまったくできず、キッチンが綺麗というよりはほぼ使われていない状態だった部屋に、少しずつ物が増えていったのだ。まだ剣淵の姉に会ったことはないが、定期的に届けられる飲み物やお菓子の類から、きっといい人なのだろうと伝わってくる。

「……いつか、剣淵のお姉さんにも会ってみたいなぁ」

 佳乃の呟きを、剣淵は聞き逃さなかった。制服からジャージに着替えてくつろいでいた剣淵が顔をあげる。

「おい、お前」

 呼ばれて佳乃が首を傾げる。気に障ることを言っただろうか、とじいと見つめていると剣淵が続けた。

「もう、学校じゃねーだろ」
「あ。そうだった」

 学校を出て二人きりになったというのに、癖が抜けない。そんな自分自身に自嘲しつつ、佳乃が改めて言う。

「奏斗」

 その名を呼ぶと、剣淵が微笑んだ。

 二人が付き合っていることを知っている者は多く、また剣淵も佳乃もそれを隠そうとはしていなかった。
 しかし皆の前で、互いの名を呼び合うことはどうにも恥ずかしく、外では苗字の呼び合いを続けていたのだった。

 二人分の飲み物とお菓子を用意して、佳乃はテーブルへと戻る。

「そういえば。奏斗のお姉さんからの荷物に入浴剤が入っていたよ。なんとか温泉、って書いてあったけど」
「ああ。それ、俺の趣味だから」
「……は?」

 予想していなかった返答に佳乃は目を瞬かせる。

「言ってなかったか? 俺の趣味、温泉巡りだぞ」
「え、えええ……知らなかった。奏斗の趣味って変わってるよね……UFOだの温泉だの……」
「別にいいだろ。まあ、それで姉貴が持ってきたんだろうな」

 どうせ町内会の景品でもらって余してたんだろうけど、と呟く姿はどこか楽しそうである。どこの温泉風入浴剤でも剣淵にとっては嬉しいものなのだと伝わってくるようだった。

「温泉かぁ……」

 剣淵の隣に座った佳乃が、しみじみと言う。コーヒーの入ったマグカップを抱え、視線は天井へと向けられていた。

「たまにはのんびりしたいなあ。春からずっと忙しかったでしょ、来年は受験で忙しいだろうし、ゆっくりできるのはいまだけだもんね」
「じゃ、今度行くか――ああでも、浮島さんとか伊達には気づかれないようにしねーとな……あいつらなら駆けつけてきそうだ」

 確かに、と佳乃は心の中で頷く。
 伊達ならば謎のルートから情報を仕入れて先回りしているかもしれないし、浮島も温泉と聞くなりドッキリを仕掛けてやろうと企んでやってくるだろう。その姿が容易に想像できてしまって、佳乃は笑う。

 皆で話している時間はとても楽しい。最近は伊達が混ざることも多くなって、毎日飽きることがない。
 しかし佳乃にとっては剣淵と二人でいる時間も貴重である。こうして二人で並んで座って、ゆったりとした時間を過ごすようになるとは思ってもいなかった。


 最初は、呪いなんて嫌なものだと思っていたのだ。嘘の代償として唇を奪われるなんて最低なものであり、そこへやってきた剣淵も最低な男だと思っていた。

 それがどうだ。いまになれば、あらゆるものが変わる。あれほど胸を占めていた伊達の存在は剣淵に変わり、呪いへの嫌悪も薄れ、むしろ呪いに感謝さえしている。

「ねえ、奏斗」

 ほんの少しだけ、距離を詰める。剣淵の肩にもたれかかって、佳乃は聞いた。

「嘘を、ついてもいい?」

 手にしたマグカップの熱は、とうにわからなくなっていた。きっと隣に座った時から、わからなくなっていた。カップからは湯気がのぼっているのに、それよりも指先の方が熱くて、焦れている。

「一緒に、温泉行きたくない」

 ゆるゆると穏やかに流れていた空気が変わる。じいと佳乃を見つめる瞳はやはり呪いに操られていて、その中には佳乃しか映りこんでいない。

 それから――マグカップのコーヒーが、ぐらりと揺れて大波を打った。

 落ちていくのだ。重ねた唇から少しずつ溶け込んでいく感情。押し付けられた唇は柔らかく形を変え、内に潜んでいた熱を引き出していく。
 この人が、この唇が好きでたまらないのだと再確認する時間だった。

 うすら瞼を開ければ、視界のほとんどを剣淵が占めている。いま、この男を独占しているのだ。うずうずと支配欲が沸いて、ねだってしまう。唇が触れ合うこの時間がもっと続いてほしくて、もっと近くにいてほしくて。

 重なっていた時間が終わり、唇に熱い余韻を残して、するりと剣淵が離れていく。 何度もキスをしてきたといえ、わずかに生じた恥じらいのためか剣淵の視線が泳いだ。

「……わざわざ、嘘つかなくてもいいだろ」
「だめだった?」
「……別に、いいけど」

 しかし言い放ってすぐに、剣淵が「いや、やっぱり、よくねーな」と続けた。

「呪いのせいなんだろうけど、頭がぼーっとして、変な感覚だ……気づけばお前にキスし終わってるし、俺だけ忘れてるみたいだ」
「そういえば呪い発動中って、操られている感じだって言ってたよね」
「だから――もう一度、次は呪いなしがいい」

 もう一度。影がゆっくりと落ちる。
 今度はその瞳に光を宿して、剣淵奏斗として。

 距離が失わていく直前、キスよりも熱く、夢中にさせる言葉が聞こえた。

「好きだ、佳乃」

 それは嘘の代償と無縁なくちびる。
 この恋も、嘘の呪いも、どうやら簡単には解けてくれないらしい。こんなにも胸を焦がすのだから、きっと解けない。

 

 後に、二人はこの呪いに呼び名を付けることになる。『嘘をついたらキスをされる呪い』なんてあまりにも長すぎたのだ。
 うそつきす。嘘をつけば好きな人とキスをする、幸せな呪い。


(終)