教室の扉についた小さな窓に、影が差し込む。それに気づいて佳乃が振り返るとそこには先生――ではなく、伊達がいた。伊達も佳乃に気づき扉を開ける。

「……三笠さん、どうして三年生の教室に」

 首を傾げている伊達に答えたのは佳乃ではなく、面白そうな気配を察知したのかニコニコご機嫌の浮島だった。

「はーい。オレが呼びました」
「ああ……浮島先輩もいたんですね」

 ほんのわずか、だが。伊達の表情が不快を示すように歪んだ気がした。それは佳乃がまばたきをする一瞬の出来事で、気づいた時にはいつもの優しい笑顔に戻っていた。

「何か用事があってここにいたのならともかく、あまり上級生の教室に出入りしない方がいいと思うよ」
「ご、ごめんなさい……」
「オレが呼んだんだからいいじゃん。それとも、王子様な伊達くんは、オレと佳乃ちゃんが二人で教室にいるのが嫌だったり?」

 さすが浮島はもめ事を起こす天才だ、と佳乃の視界がくらりと揺れる。なんという発言をしてくれたのか。

「……僕は構いませんよ」

 笑顔を浮かべてさらりとかわす様子は普段と変わらないのだが、佳乃は不安になってしまう。心の中では佳乃たちに呆れているかもしれない。一年生合宿やら体育祭やらせっかく仲良くなれたと思っていたのに、変な誤解を生んで距離が開いてしまうかもしれないのだ。

「あれ。王子様は随分と余裕だね」
「あはは。僕は王子様ではありませんよ。普通の人間です」
「やだなぁ。モテる男でしょ――ね、佳乃ちゃん?」

 浮島と伊達が話しているだけ、と思いきや唐突に話をふられて佳乃は困惑する。

 何と答えたらいいものか、浮島と伊達の顔を交互に見やって考えるが、なかなか言葉はでず。そうして悩んでいる間に、教卓の影から出てきた浮島が佳乃の腕を引いた。

 ぐい、と強く引き寄せられ、胸元に体を預ける体勢となる。伊達がいる前でこんなことをするとは。しかし佳乃を驚かせるための行動ではないのだとすぐに気づいた。
 見上げた浮島はにたにたと笑っているくせに、したたかな獣のように鋭い目つきを伊達に向けている。これは挑発だ。浮島は伊達で遊んでいるのかもしれない。

「……浮島先輩、」

 動いたのは伊達だった。軽蔑するかのようにしんと冷えたまなざしを浮島に向けている。こぼれた声にも、王子様には不似合いな苛立ちが混じっている気がした。

「三笠さんが困っていますよ。女性に乱暴をしてはいけません」
「えー? 大丈夫だよ、オレと佳乃ちゃんは仲がいいから」
「そうでしょうか。僕にはそう見えませんけど」

 じり、と伊達が歩み寄る。緊張感漂う嫌な空気となっているのに浮島は楽しそうに頬を緩めていて、それどころか佳乃を手放さないとばかりに強く抱きしめている。その手に力がこもるたび、伊達がぴくりと顔を強張らせた。

「う、浮島先輩! 困るんですけど!」
「いいじゃん。オレたち、夏休みもデートした仲なんだし」
「そ、そ、それは……」

 伊達の前でなんてことを言うのか。誤解されてしまうに違いない。おそるおそる伊達を見やるが、伊達は不快感をあらわにして浮島を睨みつけたままだった。

「浮島先輩、やめましょう。三笠さんが可哀相ですよ」
「オレには佳乃ちゃんが可哀相になんてみえないけど。それともあれかな、オレと佳乃ちゃんに嫉妬していたり?」

 浮島に言っても効かないと判断したのか、伊達がため息をついた。

 あまり見ることのできない、意外な伊達の姿に驚いていると、その隙をついて今度は伊達に腕を引かれる。
 浮島も油断していたのか、それとも手放す気だったのか、佳乃の体はするりと抜けて、伊達のところへと移った。

「……三笠さん」

 救出した佳乃を見下ろす伊達の顔は、やはり不機嫌なまま。佳乃に怒っているのか、それとも呆れているのか。その細かなところまではわからない。しかし佳乃の腕を掴む力は、伊達らしくないほど強いものだった。

「剣淵くんといい、浮島先輩といい、君の周りにはたくさんの人がいるんだね」

 そしてぽつりと、感情のこもらず無機質な呟きが佳乃に落ちる。困惑して伊達を見つめるが、その表情から真意はわかりそうになかった。

「もう少し、気を付けた方がいいよ」
「き、気をつけるって……えっと、男の人に、ってこと?」
「それもあるけど、行動もかな。不注意が多いから君はよく転ぶ」

 そして伊達の視線が佳乃の足に落ちた。

「……助けてあげられる時ならいいけど、そうじゃない時なら大変なことになるかもしれない」


 伊達が佳乃の足を見つめていたことから、体育祭の転んだ時のことだろうと思ったのだが――違和感があった。

 じっとりと穴が空くほど見つめられているのは、右足である。
 佳乃が体育祭の転倒でくじいたのは左足。
 最近で右足をくじいたのは、あけぼの山で転んで斜面を落ちた時だ。あの時は右足を捻ってしまった。だがあの場に伊達はいない。

 左右の違いなだけでささいなことではないとわかっている。これは偶然だし、伊達が勘違いしているだけ、もしくは深い意味はないのかもしれない。だというのに、妙に引っかかって気になってしまう。

 そして記憶をくすぐる、伊達の甘い香り。バニラとかムスクとか、この世の甘ったるいものを全て詰め込んだ芳醇な香り。
 包み込まれれば多幸感に包まれるのだが、しかし引っかかるものがある。どこかで、伊達がいないはずの場所でこの香りを味わった気がするのだ。

 佳乃が逡巡するわずかな間に、伊達の表情が柔らかなものに戻る。そしてふわりと羽根が舞うような軽さで伊達は言った。

「僕以外の男に愛敬を振りまかないでほしいな……なんて僕のわがままだね、ごめん」

 さらに不思議なことがある。いままでならば、伊達からこんな甘い台詞を言われてしまえば、佳乃の心は舞い上がっていただろう。顔中熱くなって、伊達のことを見つめるなんてできなかったはずだ。

 それがどうしてか。いまはひどく落ち着いている。伊達と目を合わすことだって、できてしまうぐらいに。

 いままでと違う。あんなにも焦がれて、想い続けてきたというのに、気持ちは凪いだ海のようにしんと静かだ。それどころか冷静になって、伊達がきても感情揺れ動かぬ自分自身を客観視できているのだ。

 こんなことは初めてである。この自分自身の変化に理解が追い付かない。なぜ伊達と会ってもときめかないのか、その理由を考えるのに頭がいっぱいで、伊達どころか浮島と話す余裕もない。


「ごめん。私、帰るね」

 考えれば考えるほど頭がずきずきと痛む。ふらりと立ち上がってそっけなく告げると、佳乃は教室を出て行った。