ひと雫おちたなら

「俺ね、ゆかりさんの就職先の会社の名前、ずっと覚えてたの」

「アザープラント？」

「そう」


そこそこ飲んで、その帰り道。
駅までの道を、私たちは一緒にバイトしていた頃のように並んでゆっくり歩いていた。

じとっとした湿気の多い夏の夜。
なのに、ジャケットを羽織っていてもたいして暑そうでもない睦くんの涼しげな顔といったら、うらやましい限りである。

彼はスラックスのポケットに手を突っ込んで、ネオンで明るい夜空を見上げた。

「だからね、うちの会社のウェブ関係の取引先にアザープラントの名前を見つけたとき、すぐに異動願いを出した。ゆかりさんに会えるかもな、と思って」

「ていうか、担当だし、私」

ふっと吹き出したものの、そういう意味じゃないか、と我に返る。


「うん。田中ゆかりって名前があって、ああ、結婚してないんだなって」

「…イヤミ？」

「え、相手いるの？」

「あのね、この歳になればさ、結婚してなくてもそういうのを前提にお付き合いをしてる人がいるかもって思わない？もう私、三十だよ？」

そのへんのことをあまり意識していなかったらしい睦くんは、ひとりごとのように、そうかあ…その可能性もあるのか…と困惑していた。

彼の様子を見ていたら試している自分が急に恥ずかしくなって、この八年でずるくなったなと実感する。


「まあ、でも、それならそれで」

睦くんはぼそりとつぶやいた。

「奪うからべつにいいけど」


先を行く彼が口にしたことが信じられなくて、なんだか夢を見ているみたいだと心底思った。
どんな顔をして言ったんだか見てみたい気もしたが、たぶん、なんてことないような顔なんだろうな、見えないけど。


酔ってるわけでもなんでもなく、素直に嬉しくなっちゃってるんだから私もまだまだだだ。


「またふらっといなくなられても、ねえ」

「それは本当にごめんなさい。反省してます。子供じみてました」

「前科持ちのひとには厳しいから、私」

「もういなくならないよ」

「どう証明するの？」

取り調べさながらの尋問に、睦くんが半分ほど振り返ってちらりと私を不満げに眺める。
たぶん、私も彼と似たような顔をしているに違いない。


減らず口叩くのは変わってないな、と言いたげに呆れたような目をしてため息をついた彼は、後ろを歩いていた私の手をつかむと横道にそれた。

細い路地に入ったところで手を離された、かと思ったら今度は肩をつかまれて壁に背中を押しつけられる。
決して痛いほどつかまれているわけではないものの、たぶんちょっとやそっとじゃ抜け出せない、身動きできないほどの力だ。


外に出るだけでもじわりと汗をかくこの気候にくわえ、睦くんに肩をつかまれてにじり寄られるという状況は、色々とまずい。