リナが心のなかで、「よし!」と気合を入れてから、『粟根あやかし心理相談所』の扉を開けてなかに入る。

 チリンチリンと軽やかなベルの音が鳴るが、昨日と同様誰もいない。

 よく考えれば、鍵もかかっていないしこんな不用心でいいのだろうかと、いらない心配をしてしまう。

「あれ、リナさん、早くないですか? まだ九時にもなってないですよ。出勤は十時と伝えていたはずですが」

 声がするほうに顔を向ければ、眠たそうに瞼をこすって壁に寄りかかる粟根がいた。

 髪には寝癖がついていて、白衣を羽織ってはいるが下はパジャマのようだった。

「だって、提灯を使ってこんなふうに行けるとは思わなくて、ちょっと余裕を持って家を出たんです。それにしても、粟根先生、もしかしてここに住んでるんですか?」

「そうですけど……。あ、お願いですから私の寝顔を見て興奮したり、襲ってきたりしないでくださいね?」
「そんなことしません!」

 寝起きでさえも飄々と冗談を言ってのける粟根にリナは憤慨したが、彼は肩を竦すくめるのみ。

「とりあえず、せっかく来たんですから、コーヒーでも淹れてもらえますか? 給湯室はこっちです」

 そう言って粟根はあくびをしながら奥にある心療室へと戻っていく。

 どうやら職場の案内をしてくれるらしい。

 リナは慌てて彼のあとを追った。

 粟根は心療室に入ると、右側にあるカーテンをさっと開ける。
 このカーテンは窓の日差しを遮るものではなく、部屋を仕切るためのカーテンだ。

 それが開かれると、水場や冷蔵庫が設置されているスペースが見えた。

 ここが給湯室のようで、昨日も粟根がここで沸かしたお湯でリナにコーヒーを振る舞ってくれた。

 給湯室のコンロは一口で、流し台も小さいが、作業台はその分広い。

 冷蔵庫はひとり暮らし用のコンパクトなサイズだ。

 想像したよりもちゃんとした給湯室だなとリナが思っていると、粟根が、
「ここでコーヒーを入れられます」

 とだけ言って引き返し、心療室の長テーブルの側にあるひとり掛けのソファに腰を沈めた。

 昨日も座っていた黒革のソファだ。

 どうやらこのソファが彼の定位置らしい。

 もう案内は終わりとばかりにソファでくつろぎ始めた粟根を見て、リナは小さくため息を吐いた。

 粟根はいちいち給湯室の使い方やルールを教えてくれるような御仁ではないようだ。

 仕方なくリナはひとりで冷蔵庫の中身や備品などを確認していく。

 古びたサイフォン式のコーヒーメーカーがあったが、埃をかぶっていて、それを使うための豆もない。

 ほかを見るとお湯で溶かすだけのインスタントコーヒーの粉があったので、それを使って手際よくコーヒーをつくると、粟根のいる心療室に持っていった。

「コーヒーメーカーがあるみたいですけど、いつもインスタントコーヒーなんですか?」

「ああ、あれは使い方がわからなくてそのままにしてるだけです。リナさんが使いたいなら、使って構いません」

 そっけなく言って、ぺラリと分厚い本を重たそうに抱えてページをめくる粟根。

 使い方がわからないものがあるということは、この相談所は粟根が立ちあげたものではなく、誰かから引き継いだものなのだろうか。

 そうリナが疑問を抱いたとき、粟根が先ほど自分で読んでいた本をリナのほうに突き出した。

「これ、読んでおいてください」

 そう言われて、リナは粟根の持つ分厚い本の表紙に目を向ける。

 そこには『妖怪大図鑑 妖たちの暮らしと文化』と書かれている。

「こ、これは……?」

 突然渡された重量感のある本を前にリナは顔を強張らせた。

「前に言ったでしょう? ここに来る相談者は、あやかしです。あやかしたちの文化を知らないと、彼らがどう思って悩んでいるのか、話を聞くだけではなにもわからないですから」

 そう言いながら、リナが先ほど入れたコーヒーに角砂糖を大量に投入する粟根。

 さすがに入れすぎでしょうと口元をひくつかせながら、そのコーヒーに思わず目を奪われていると、粟根が呆れたような目線をリナに向けた。

「話、聞いてますか?」

「あ、はい。聞いてます! この本で妖怪についてお勉強しろということですよね。わかりました」

 そう言ってリナは本を受け取って、一旦長テーブルに置くとペラペラと本をめくる。

 イラスト入りで、妖怪の伝承なども含めて詳しく書かれている。

 綺麗に活字印刷された本だが、いったいこれはどこで手に入る代物なのだろうか、と妙な疑問が浮かぶ。

「これと同じ厚さの本があと十冊あるので、仕事の合間に暗記できるぐらいすべて読んでください。まあ、一週間あれば十分でしょう」

 と、平然と言い切った粟根に、「え!十冊⁉」とリナは思わず声を上げた。