結局両親はいつものように大槻に相談し、諦めさせないまでも、もう少し保留させようと考えた。
ところが大槻はまったく別の覚悟を持っていたのである。

「市川君に初めて会ったときから、こうなるような気がしていました」

そしてカウンターの引き出しから一通の手紙を取り出し、貴時の両親に差し出した。

「先日、プロ棋士の石浜和之先生に市川君の棋譜を見ていただいたんです。小学一年生、初段の将棋はまだまだ荒いし拙い。でも、市川君には確かな才能を感じるんです。それが私の贔屓目でないかどうか、確めたくて」

博貴が手紙に目を通してから、沙都子に渡す。
手紙の内容は、いつでもいいから一度本人に会いたいというものだった。

「いくら才能があって周りが期待しても、本人にやる気がなければプロにはなれません。でも市川君がその気なら、進んでみるべきだと思います」

貴時の将棋熱はよくわかっているし、どうやら向いているらしいとも思っていたが、それでもあくまで趣味の範囲内だと思っていた。

「何も今すぐでなくても。もう少し、たとえば中学生くらいになって考えてもいいのではないですか?」

子どもには健康で伸び伸び育って欲しい。
沙都子の願いはそれだけだった。
好きなものを一生懸命するのはいいけれど、可能性を狭めることもしたくない。
ところが大槻の考えは真逆だった。

「プロ棋士を目指すということは、他の可能性を捨てるに等しいことです。中学生なんて遅過ぎる。市川君の伸び盛りは今です。それなのに将棋を取り上げられようとしている。もしご両親の都合でサポートが行き届かないというのなら、私がそれを担いましょう」

言葉通り、大槻は両親とともに学校に出向き、貴時にとって将棋が遊びや習い事ではないこと、今後もそれによって学校を休んだり、遅刻や早退する可能性があること、またプロになる道の厳しさなどを一生懸命説明してくれた。
運よく、貴時の担任はプロ棋士に関する知識があったため、その理解は早かった。
そして将棋教室については、学校が終わったら大槻が迎えにくることと、帰りは両親が迎えに行くことで折り合いがつき、それ以来現在に至るまで貴時の都合で休んだことはない。