「ひーちゃん!」

暗がりの駐輪場を唯一照らす街灯の下に、四年生になった貴時の姿があった。
緋咲を認めると、熱中していた詰将棋の本を閉じて走り寄る。

「あ、トッキー! ただいま」

高校受験を控えた緋咲は、週二回の塾から帰ってきたところだ。
自転車に鍵をかけ終えるのを待って、貴時は黙って一枚の紙を差し出す。

「わあ! ありがとう、トッキー」

丁寧にノートを破って四つ折りにされたその紙を、大切に受け取る。
それは先日の子ども将棋大会の二回戦で、貴時が五年生に勝ったときの会心譜だった。
結果は決勝で六年生に負けてしまったが。

棋譜など見たところで緋咲にはさっぱりわからないけれど、街灯の下で紙を広げ、ひたすらに並んだ符号をざっと見る。

「頑張ったんだね。えらい、えらい」

かなり追い付かれてはいるものの、まだ見下ろせるやわらかな髪を、ぐちゃぐちゃかき混ぜるように撫でた。
手書きで書かれたその文字からは、貴時が緋咲のために精一杯書いてくれたことが伝わってくる。
きっと将棋の内容も、自分で納得いくものだったのだろう。
それならばわからなくとも手離しで褒めるに値する。


『プロ棋士になりたい』
一年生のあの夜、ひとりで将棋教室に行ってはいけない、と両親が言い出すより先に、貴時はそう告げた。
その言葉で、たくさんの大人が動き、貴時本人の生活も変わることとなった。

小学校一年生がひとりで学区外の将棋教室に行ってはいけない。
但し、プロを目指すなら話は別。

大槻の言葉を貴時はそう受け取っていた。
将棋はただのゲーム。
勉強より、学校のルールより優先していいものではない。
しかし、それが将来の職業であれば、ただのゲームや習い事と同じではない。

「本当の本当にプロ棋士になりたいの?」

「なりたい」

「プロ棋士が何か、わかってるのか?」

「将棋で生きていくってこと」

いつかこんなことを言い出すのではないかと、貴時の両親は大槻からプロ棋士について話を聞いてはいた。
しかしそれがこんなに早く訪れるとは思っていなかったので、おおいに戸惑っていた。

「もう少し大きくなってから考えたら?」

「もっと他にもたくさん仕事はあるぞ?」

これまで将棋に関して、貴時が両親の思い通りになった試しはなく、この時もまた断固として譲らなかった。