この子の生きる時間はすべて、貴重で大切なもの。
そんな想いが込められた“貴時”という名前は、残念ながら少し発音しにくかった。

「トッキー、オムツ替えるよー」

一応の努力はしたものの、「たかときくん」と呼ぶと、どうしても話すスピードが落ちる。
面倒臭くなった緋咲は勝手に呼び方を変え、変わらない愛情で貴時を慈しんだ。

「うわ! あーーーーん……」

「緋咲ちゃん、ごめんね! 大丈夫?」

オムツを開いた途端、お気に入りのワンピースにおしっこをかけられたりもした。
ミルクをあげたら、そのまま胸に吐き戻されたこともあった。
もちろん気持ちのいいものではない。

「大丈夫だよ、トッキー。洗えばいいんだから」

貴時はまったく気にしていないのだけど、緋咲は貴時を傷つけまいとそう言って笑ってやる。
すぐ怒る兄がいるので、自分はやさしいお姉ちゃんになるのだと、緋咲なりに努力していたのである。

「おばちゃん、みてみて! トッキー、ひとりでおせんべい食べてるよー」

「あらー、本当ね。写真! 写真撮らなきゃ!」

ふくふくの頬っぺたが、ベビーせんべいを噛むたびにもにもにと動く。
カーペットの上に腹這いになって、緋咲はそれをひたすら眺めていた。
頬っぺたの動きと一緒に、口元についたせんべいの欠片も揺れる。
それがあまりにかわいくて、大福のような頬っぺたごと食べてしまいたい衝動に駆られた。

「緋咲! ダメよ!」

厳しい紀子の声と手で、緋咲の唇は貴時に届く前に押さえられた。

「小さい子に口をつけたらダメ。虫歯になっちゃうでしょ」

「ちゃんと歯磨きしてるよ?」

「それでもダメ。赤ちゃんはすぐに病気になっちゃうから、大事にしようね」

しぶしぶと緋咲は貴時から離れ、指先でせんべいの欠片をはじく。
薄青のカーペットの上に、またひとつせんべいカスが増えた。

もにもにと動く頬っぺたを、緋咲はじっと見続ける。
そして紀子がトイレに立った隙に、すばやく口づけた。

「うふふふ。かわいー」

貴時はまったく反応しない。
この頃の彼にとっては、緋咲より将棋より、ベビーせんべいの方が大きな関心事であったのだ。