「想像もつきません」

「本将棋が幕府公認となってから約400年。同じ棋譜はふたつとない、と言われているんです。将棋の手の数は、星の数より多いのだとも」

広大な宇宙にひとり放り出されたような心もとない気持ちになって、緋咲は自分の腕を抱えた。

「プロになるなんて、それこそ星を掴むようなもの。市川君は、今、高く高く跳んで、手を伸ばしている最中です」

幼い頃、貴時はショッピングモールにあった大きなクリスマスツリーの、一番上の星に手を伸ばしたことがあった。
一生懸命ジャンプする貴時を、沙都子や紀子と一緒に微笑ましく見守っていた。
今目指す星は、あれよりもっと高いところにあるのだろう。
そして貴時は、他人よりずっと高く飛ぶ力がある。

過去をさ迷っていた視界に、小さな手が入り込み、ひよこの駒を触る。
かろうじてつかまり立ちできるくらいの男の子が、不器用に手を動かして駒を引き寄せた。
貴時がこのくらいのときは、駒などに縁はなく、リモコンばかり追いかけていたな、と緋咲は懐かしく思い出す。
小さな手ではこの駒は掴み切れないようで、ひよこはカラーマットの上に落ちた。

「あ、こら! すみません」

頭を下げる母親に、大丈夫ですと返事して、

「はい。どうぞ」

その子に駒を渡した。
じっと絵を見たその子はそれが何なのかわからないようで、マットの上に次々落として遊ぶ。
それを見て大槻は、目を細めて笑っていた。

会場には人がたくさん集まっていて、小学生くらいの子たちも真剣に盤を睨んでいる。
大槻は立てた膝に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。

「最近すっかり膝も腰も痛くて。私の萎えた脚ではとても跳べませんが、まだまだお手伝いはさせてもらうつもりです」

どこも何ともなさそうにキリッと背筋を伸ばして、大槻はテーブルの間を回り始めた。
緋咲は黙って礼を贈る。
将棋を知らなくても、自然と頭が下がる背中だった。