「480円か。腹立つな」

残された伝票を人差し指と中指で挟み、ついたため息の半分は怒り、半分は諦め。
付き合って面白くもなんともなかったのはお互い様だった。
浮気なんて断じてしていないけれど、真心を捧げていたかと聞かれたら、はっきりと否だ。
無実の罪を着せられた挙げ句のあの暴言。
純粋な怒りは湧いてくる。
それでも、良くも悪くも、諦めのいいのが緋咲である。
智哉に対する怒りも、砂粒ほど残っていた愛情の欠片も、お冷やグラスの結露を吹いた紙ナプキンと一緒に丸めて捨てた。
言われるまでもなくタップ数回、連絡先消去。
そんなことより、今は大事なものがある。

堂々と見られるようになった携帯をテーブルの上に乗せて、真っ黒な画面と時刻表示を交互に眺める。
店員さんが回ってきてブラインドを下ろしてくれたから、反射して見えないなどということもなくなった。

『市川沙都子』
しばらくしてバイブ音と共に表示されたその文字を見て、急いでメール画面をタップする。
未だガラケーから送られてくるその内容は、とてもシンプルだった。

『二連勝で三段に昇段しました』

「よしっ!!」

画面を見たままガッツポーズ。
そして、きゃあー! すごい、すごい! と拍手を続ける緋咲に、周囲からは興味本位な視線が向けられていたけれど、当人はまったく気づいていない。

「すみませーん!」

店員さんを呼び、智哉の残骸の片付けと、カフェラテのおかわり、そしてレアチーズケーキの追加まで嬉々としてお願いしている。

「三段かあ。すごいなー。これであとひとつ」

ブラインドの隙間から西日が見える。
そこから顔を左に動かして、南、つまり東京の方向に向かって熱々のカフェラテを持ち上げた。

「トッキー、おめでとう!」

ひとり勝手に祝杯をあげる緋咲の頭に、もう智哉のことはなくなっていた。
代わりに、普段はおとなしい顔を紅潮させて、見てもわからない棋譜をくれる少年の姿が思い出される。
あれはまだ小学校の三、四年生くらいのことだ。

緋咲が大学進学で家を出てから四年目。
たまに帰省するたび大きくなっている弟分も、もう高校二年生だ。
だいぶ前に越された身長は、また伸びているかもしれない。
伸び盛りの身長より早いペースで、夢への階段を駆け上って行く姿を想像し、緋咲はブラインドで隠れた空を見上げた。