「この前、旦那の荷物の中から将棋盤見つけてね。それ以来もう酷いの! ご飯も食べない、お風呂も入らない。寝るのもしぶって将棋将棋将棋将棋。毎晩将棋盤に突っ伏して寝てるところを布団に運んでるのよ」

「将棋盤隠しちゃったら?」

「それ、やったけど大変だった。今までほとんど手がかからなかったのに大暴れされて」

実家の庭で採れたという柿を届けに来て、沙都子は玄関先で立ち話しをしたまま帰る様子がない。
そろそろおやつの時間なのに、もらった柿も紀子が持ったままで、今は口に入りそうになかった。
沙都子がここにいるということは、貴時はひとりで家にいるのだろう。
そのことが気になって、緋咲は沙都子の脇をそっとすり抜ける。

タタタタタン、タタタタタン。
タタタタタン、タタタタタン。

踊り場で区切られた階段を4つ降りて102号室に入ると、話通り貴時は小さなマグネット盤にひとり向き合っていた。

「トッキー!」

よほど集中しているのか、貴時は気づかずにカチカチマグネットを動かす。

「トッキー、ねえ、トッキー」

肩を揺り動かされて初めて貴時は将棋盤から顔を上げた。

「あれ? ひーちゃん」

緋咲を認めると飛び付くように、

「ひーちゃん! 将棋しよう!」

と言う。

「私、将棋できない」

「ぼくが教えるから」

「やだよ。わかんないもん」

「おねがい!」

腕に食い込む指をはずして、緋咲はいたずらっぽく笑う。

「ねえ、ねえ。将棋、好きなの?」

貴時は神妙な顔でうなずいた。

「だったらさ、いいとこ連れてってあげようか」


自転車置き場から、自分の赤い自転車を引っ張り出し、貴時の補助輪つきの自転車も出してやる。

「ゆっくり行こう」

貴時が買ってもらったばかりの自転車は車輪が小さく、緋咲のものとはスピードがまるで違う。
緋咲ひとりなら10分程度で着く道のりは、貴時にとっては未知の領域だ。

実りを終え寝静まるような田畑も、落ちた赤茶色の葉が貼り付くアスファルトも、白い雪を待つばかりの季節。
何度も踏み潰されたけやきの葉を、ふたり分の車輪がまた踏みつける。
ガラガラと大きな補助輪の音を響かせながら、住宅街の狭い路地を抜け、大きなスーパーの駐車場を横切り、神社の角を曲がった。

「トッキー、大丈夫?」

息を切らす貴時を見て、緋咲はスピードを落とし、心配そうに言った。
ゆっくり走っているつもりでも、車輪の大きさが違うので、貴時は無理せざるを得ない。
カラカラの喉からは声も出せず、貴時は小刻みにうんうんとうなずく。
どこへ向かっているにせよ、もう帰りたくなっていたけれど、楽しそうな緋咲の前に言い出せなかった。