そして一番後ろを覗き見るようにしながら、貴時は少し声の音量を上げた。

『それから、これまでずっと指導してくださった大槻均先生』

緋咲の隣で、大槻が身を固くした。

『全然前に来てくださらないけど、老眼だからよく見えてますよね?』

たくさんの人が一斉に後ろを見る。
壁際に逃げるようにしていた大槻は、注目されて居心地悪そうに俯いた。
その姿に向かって、貴時は笑顔のままほんの少し目を潤ませる。

『どんなに悔しいときでも『負けました』『ありがとうございました』は、はっきり言わないと許してくれない厳しい先生でした。将棋の内容以上に、将棋を通して人間を育てること。そんな先生の指導を受けられたことは、この上ない幸運でした。今後とも大槻均の生徒として、恥じない棋士、恥じない人間でありたいと思います。本当に本当にありがとうございました』

これまでで一番深く頭を下げる貴時を、けれど大槻は見ていなかった。
俯いたまま、何度も何度もうなずいて、そのたびに古い革靴をポタリ、ポタリと滴が濡らした。
いつか借りたハンカチのお返しに、今日は緋咲がハンカチを差し出す。
大槻は片手を上げて感謝を示し、ピンク色のハンカチで目元を拭った。

『最後になりますが、ようやくプロとしてのスタートラインに立てたということで、将棋とともに生きていける幸せを噛み締めながら、今後は一層気持ちを引き締めて参りたいと思います。そしていつか、一番輝く星を掴めるように精進致しますので、今後とも応援よろしくお願いいたします。本日は本当にありがとうございました』

会場全体から大きな拍手が送られ、当然緋咲も大槻も紀子も拍手した。
心のこもった拍手はなかなか鳴りやまない。
小中高ずっと同じだったひよりの姿もある。
結局初段から上がれずにいる中西の姿もある。
棋士を目指すことを受け入れてくれた元担任の姿もある。
たったひとつ将棋を求めた貴時は、たくさんのあたたかい手に支えられてきたのだ。