「こんばんは。やはりいらしてましたか」

おだやかな声に救いを見出だし、緋咲は一瞬で笑顔になった。

「あ、大槻先生。ご無沙汰してます」

丁寧に礼をする大槻に、お皿を抱えたまま緋咲と紀子も頭を下げる。

「おめでとうございます」

お祝いを述べる紀子に、大槻は首を振る。

「いえいえ、私は何も」

「でもホッとしましたよね。トッキーも大槻先生には心配かけてるって気にしてましたから」

「昇段できるとは思っていたので、何も心配してませんよ。これからも大変なことには変わりませんし」

プロ棋士は、なることが難しい代わりにかんたんにクビになったりはしないのだが、上に上がることも容易ではない。
名人を頂点とした順位戦において、棋士はピラミッド状の5クラスに分けられていて、プロ入りしたばかりの貴時は当然一番下のC級2組。
約半数の棋士がこのC級2組から上がれないまま、棋士人生を終えるという。

「トッキーなら大丈夫ですよ」

根拠もなく緋咲は言い切って、それをわかっていて大槻も笑顔を浮かべた。

「あ、トッキーだ!」

挨拶のために、貴時が壇上に上がる。
緊張している様子が伝わってくるが、大槻の指導の成果で、貴時は顔を上げて背筋を伸ばし、深々と一礼した。

『本日は私の昇段を祝うためにお集まりいただき、まことにありがとうございます。このために奔走してくださった、県支部のみなさま、後援会のみなさま、ありがとうございました。こうして昇段し、プロ棋士になれましたことは、みなさまのお力添えのおかげと思っております』

たくさん練習したのか、つかえるところもあったものの前を向いたまま話している。

『感謝を伝えたい人は尽きませんが、まずは石浜師匠。初めてお会いした日、不躾にも弟子入りを志願した私を快く受け入れてくださって、ありがとうございました。師匠の常に最善手を求める姿勢、自分の将棋を貫こうとする姿勢は、あの時から変わらず私の憧れです。今後は公式戦で恩返しを果たせるよう、精進いたします』

何度目かの祝賀会だろうに、それでも普段厳しい石浜の顔には、お酒で赤い笑顔が浮かんでいた。

『次に父さんと母さん。たくさんのものを諦めて、ずっと応援してくれてありがとう。これからできるだけ親孝行します』

沙都子が後ろを向き、目元にハンカチをあて、博貴はその肩をそっと抱いた。
ふたりはどれだけホッとしたことだろう。
貴時の戦いは、両親の戦いでもあった。
見守るしかない辛さは、ある意味本人以上に消耗したのではないかと、緋咲もつい涙目になる。

『ここは恥ずかしいのでこれくらいで』

本当に恥ずかしそうに貴時はへらっと笑って、会場もなごやかな笑い声に包まれる。
短くとも、想いは十分伝わったはずだ。