「自転車だと遠かったでしょ?」

「それほどでもない。学校と方向は近いから。雪降る前でよかった」

ブレザーにネクタイではあるけれど、それはスーツとは全然違っていて、黒いリュックサックを背負い自転車に跨がる姿は、どこから見ても高校生だった。
わかっていても、もう緋咲の胸の高鳴りが治まることはない。

朝の冷気を思い切り吸い込んだ貴時は、幾分落ち着いた表情で緋咲を見下ろす。

「さっきはああ言ってくれたけど、何年かかるかわかんないよ?」

「うん。わかってる」

「もしかしたら、ダメかもしれないよ?」

「なるよ、絶対」

緋咲は胸を張り、自信たっぷりに断言した。

「だってタイトル戦に出るって約束したもんね」

貴時は吹き出すように笑う。

「ひーちゃんは、ほんとかんたんに言うよね」

苦笑しながら何度かうなずいて、

「約束する」

今度は真剣な声で答えた。

「私にできることがあったら、何でも言って」

それは社交辞令でも何でもなく、心からの言葉だったのに、貴時は間髪入れずに断った。

「気持ちは嬉しいけど、特にないな」

「……だよね」

パジャマにパンプスという、妙な足元を見下ろして、緋咲はため息をついた。
反対に貴時は、きらめく冬の朝日に目を細める。

「ひーちゃんは、存在してくれるだけでいいんだよ」

「なによ、それ」

貴時は笑い声だけ返して、自転車のペダルを強く踏み込んだ。
カチャンと鍵がぶつかって音を立てる。

「行ってきます!」

「いってらっしゃい! 気をつけて!」

黒いリュックサックが遠ざかって、ブロック塀の向こうに消えた。
とたんにするどい冷気を感じるようになり、アパートに駆け込もうとすると、まぶしい太陽光が緋咲を呼び止めた。
昨日の雨雲は彼方に押しやられ、さっき貴時が見上げた場所は澄んだ空色をしている。
緋咲は乏しい想像力を駆使して、空の先の宇宙を思い浮かべた。

貴時になら、いつかきっと言える。
今もそこにあるはずの、星の数よりもっとたくさんの『好き』を。