闇が一層濃くなるように、貴時が近づいてきた。
メガネが当たり、鼻先が触れ、唇に吐息がかかる。
ただの闇にしか見えない貴時を、緋咲は見つめた。
男の人の匂いがする。
男の人の体温を感じる。
目眩がしそうなその気配に身を委ね、そっと目を閉じた。
唇に降る湿ったぬくもりに気を取られ、肩の痛みは感じなくなった。
1、2、3、4、5、6、……
秒を読むように、時計の秒針の音が大きく聞こえる。
ふっと目の前が明るくなり、緋咲は目を開けた。
同時に肩からも圧迫がなくなる。
吐息であたためられた唇が、急に寒く感じられた。
貴時は深く項垂れていて、顔はまったく見えない。
「将棋なんて嫌いだ。ひーちゃんなんて、大っ嫌いだ」
何も身につけず、何も持たず、貴時は家を出ていった。
緋咲はふたたびその場に座り込み、しばらく立ち上がることはできなかった。
追いかけたところで、浅はかな自分は、きっとまた貴時を傷つけてしまう。
開け放たれた襖から、貴時の部屋が奥まで見えた。
昔入ったときにはそれなりに少年らしさが垣間見えたのに、今は、人の住む気配すらしないほどガランとしていた。
吸い寄せられるように、緋咲はその部屋に踏み入る。
畳敷きの6畳間には小さなデスクがひとつと、カラーボックスがふたつしかない。
ベッドも、衣装ケースも、テレビも、何もなかった。
高校生らしいものはカラーボックスの中の教科書と、デスク脇にひっかけられた黒いリュックサックくらい。
それ以外は棋書と、机の上の将棋盤と駒箱、パソコン。
すべて将棋の勉強に使うものばかりだった。
この部屋は子どもの遊ぶところではなく、ゆっくり休む場所でもなく、ただ、将棋を勉強するための場所になっていた。
ここで貴時はひとり、世界に深く沈むのだろう。
何時間も、何日も、何ヵ月も、何年も、ずっとそうしてきたのだ。
たったひとつ不必要なぬいぐるみが、盤の奥に置いてあり、緋咲はそれを手に取った。
「本当に、私って無神経だな……」
それは昔緋咲が貴時にあげたものだった。
『ワン将』と書かれた将棋の駒を抱えた犬は、不出来でかわいくなくて、全然気に入っていなかった。
もう誰だか忘れたけれど、クレーンゲームが得意だという元彼が取ってくれたもののひとつ。
ゴミ袋に入れる代わりに貴時に渡しただけのものだ。
必要のないものはすべて切り捨てたこの部屋に、これを残していた貴時の気持ちが、緋咲には痛かった。
外は肌にまとわりつくような糸雨が、音もなく降っていた。
街灯の灯りの中でだけ、雨のラインがようやく見える。
例年より初雪は遅いけれど、雨は日に日に冷たく、凍るように寒くなる。
貴時は傘を持って行かなかった。
風邪をひかなければいいと、それだけを願う。
祈るように天を仰いでも、重く垂れ込めた雲が隙間なく覆っていて、空の欠片さえ見えなかった。
メガネが当たり、鼻先が触れ、唇に吐息がかかる。
ただの闇にしか見えない貴時を、緋咲は見つめた。
男の人の匂いがする。
男の人の体温を感じる。
目眩がしそうなその気配に身を委ね、そっと目を閉じた。
唇に降る湿ったぬくもりに気を取られ、肩の痛みは感じなくなった。
1、2、3、4、5、6、……
秒を読むように、時計の秒針の音が大きく聞こえる。
ふっと目の前が明るくなり、緋咲は目を開けた。
同時に肩からも圧迫がなくなる。
吐息であたためられた唇が、急に寒く感じられた。
貴時は深く項垂れていて、顔はまったく見えない。
「将棋なんて嫌いだ。ひーちゃんなんて、大っ嫌いだ」
何も身につけず、何も持たず、貴時は家を出ていった。
緋咲はふたたびその場に座り込み、しばらく立ち上がることはできなかった。
追いかけたところで、浅はかな自分は、きっとまた貴時を傷つけてしまう。
開け放たれた襖から、貴時の部屋が奥まで見えた。
昔入ったときにはそれなりに少年らしさが垣間見えたのに、今は、人の住む気配すらしないほどガランとしていた。
吸い寄せられるように、緋咲はその部屋に踏み入る。
畳敷きの6畳間には小さなデスクがひとつと、カラーボックスがふたつしかない。
ベッドも、衣装ケースも、テレビも、何もなかった。
高校生らしいものはカラーボックスの中の教科書と、デスク脇にひっかけられた黒いリュックサックくらい。
それ以外は棋書と、机の上の将棋盤と駒箱、パソコン。
すべて将棋の勉強に使うものばかりだった。
この部屋は子どもの遊ぶところではなく、ゆっくり休む場所でもなく、ただ、将棋を勉強するための場所になっていた。
ここで貴時はひとり、世界に深く沈むのだろう。
何時間も、何日も、何ヵ月も、何年も、ずっとそうしてきたのだ。
たったひとつ不必要なぬいぐるみが、盤の奥に置いてあり、緋咲はそれを手に取った。
「本当に、私って無神経だな……」
それは昔緋咲が貴時にあげたものだった。
『ワン将』と書かれた将棋の駒を抱えた犬は、不出来でかわいくなくて、全然気に入っていなかった。
もう誰だか忘れたけれど、クレーンゲームが得意だという元彼が取ってくれたもののひとつ。
ゴミ袋に入れる代わりに貴時に渡しただけのものだ。
必要のないものはすべて切り捨てたこの部屋に、これを残していた貴時の気持ちが、緋咲には痛かった。
外は肌にまとわりつくような糸雨が、音もなく降っていた。
街灯の灯りの中でだけ、雨のラインがようやく見える。
例年より初雪は遅いけれど、雨は日に日に冷たく、凍るように寒くなる。
貴時は傘を持って行かなかった。
風邪をひかなければいいと、それだけを願う。
祈るように天を仰いでも、重く垂れ込めた雲が隙間なく覆っていて、空の欠片さえ見えなかった。



