すべて夢だったのかと思うくらい時間が経って、建て付けの悪い襖の開く音がした。
緋咲はとび跳ねるように立ち上がる。
「トッキー……」
「ひーちゃん、何してるの?」
憔悴し切った姿を想像していた緋咲には、拍子抜けしてしまうほど、貴時の態度はいつも通りだった。
「トイレに行きたいんだけど」
「あ、ごめん」
壁に張り付いて動線を開けた緋咲の前を通り過ぎて、貴時は言葉通りトイレに行く。
数十秒後、大きな水音がしたかと思うと貴時が出て来て、ふたたび部屋に戻ろうとした。
「行っちゃうの?」
つい、シャツの裾を掴んでいた。
「できれば、今は会いたくなかったな」
ふっと空気が陰る。
貴時はふたたび闇と静けさの中に戻ろうとしていた。
何か言わなければ、と思っても掛けられる言葉なんて見つからず、考え得る限り一番陳腐なことを口走ってしまった。
「トッキーは頑張ったよ」
当然ながら緋咲の言葉は貴時の心に届かず、電球さえ嘲笑うようにチカッと揺れた。
「残念だけど、俺がいるのは結果がすべての世界なんだ。頑張っただけで褒められるのは、せいぜい小学生まででしょ」
シャツを握る手に力が入る。
「だったらトッキーは、いつ誰が褒めてくれるの? だって、トッキーは小学生のときでも、結果がすべての世界にいたじゃない。まだ高校生なんだから、急いで大人にならなくていいよ」
励ますというより、すがる言葉だった。
自分の力ない腕では届かないところに、貴時がどんどん遠ざかっていくようで。
「無神経だなあ」
シャツを握る手の上に、ポツリとその声は落とされた。
「ひーちゃんは昔から本当に無神経だよね」
言われた言葉を理解するより早く、両肩が掴まれて壁に打ち付けられた。
驚きと痛みで手からシャツがすり抜ける。
「だったらなんで五年も早く生まれたの? なんで待っててくれないの?」
電球の灯りを背に受けて、貴時の顔は真っ暗だった。
「早く結果を出すしかないんだよ。ひーちゃんのことだけじゃない。毎月何度も東京に通うから、父さんも母さんも仕事を増やして、旅行も、家を買うことも、いろんなことを諦めてきた。普通に大学に進学して、普通に就職したなら抱えなくていい心労をずっと負わせて。それで頑張ったからいいなんて言えないんだよ」
あのやわらかく動いていた指が緋咲の細い肩に食い込む。
圧倒的な男の力を前に、身じろぎすることさえできなかった。
痛みに顔を歪めても、貴時の力は弱まらない。
押し付けられた板壁がミシミシと音をたてた。
「好きなのに、大好きなはずなのに、苦しいだけになっていく気持ち、ひーちゃんにわかる?」