緋咲は胸に去来する想いをじっと抱き締めてハンドルを握っていた。
それは緋咲が知っているものとよく似ていて、そしてもっとずっと強くあたたかいものだった。
大槻は何も言わないので、先週換えたばかりのスタッドレスタイヤの音ばかりが身体の中を流れていく。

「トッキーはプロになれるんでしょうか」

「一度負けたくらいでずいぶん弱気ですね」

「だって……」

単純に考えれば、三段がタイトルホルダーに勝てるなんて思わない。
大金星はめったに起こらないものなのだ。
けれど、貴時は自分の可能性を模索して、勉強して研究して、それを練習将棋でも研究会でもなく、この舞台でぶつけてきた。
だからこそ、トップとの歴然たる差を見せつけられ、自分を見失いはしないだろうか。

「奨励会で段級位を上げるには七割以上の勝率が必要です。かなり高いハードルでしょう?」

緋咲は腫れた目で大槻を見やる。

「プロ棋士で年間の勝率一位は、高いときで八割五分です。それでも、一割五分は負けるんですよ。十割勝つ棋士なんていません」

一局一局必死に指すけれど、棋士であるからには必ず負ける。
敗戦との付き合い方も仕事の一環であろう。

「良くも悪くも、負けることにも慣れます。気持ちの切り替え方は、市川君ならきちんと身につけているはずです」

「そんなの、身につけなくていいのに」

泣けなかった貴時を想い、自分の目から涙をこぼす。
視線だけは前からそらせないので、涙は自然と膝元に落ちた。

「笑わなくていいのに。泣いたらいいのに。トッキーはまだ高校生なんだから。もっと普通にワガママ言って、普通に遊んで、普通に恋をして、そんな人生も選べたのに」

大槻の沈黙が悲しげに変わった。

「そこは申し訳なく思っています。つい舞い上がって背負わせてしまいました」

大槻はその昔、年齢制限より前に奨励会を退会している。
段位は二段だった。
夢を自分から手放した大槻が、貴時に期待するのも無理ないことなのだ。

元より大槻の指導は甘えを許さないものであったが、プロを目指すと決めてからは一層厳しいものになった。
曖昧に指した手や、油断があったとみると容赦なく叱責する。
課される課題も重い上に多く、時には学校の宿題が間に合わないこともあった。
しかし、ただ厳しく当たるだけでなく、近隣で開かれる将棋大会やプロの指導対局には、自分の車で貴時を連れて行った。
それ以外にも伝を使って、アマチュア高段者や奨励会員と指す機会を設けた。
金銭的にも相当負担だっただろう。
地方に住み、直接強い人と盤を挟む機会の少ない貴時に、大槻はできる限りの機会を与えてきたのだ。