「ちょっともう一回トイレ……」
「さっき行ったばっかでしょ。もう時間ないよ」
「うう……」
「なんでお父さんがそんなに緊張してるのよ」

 ひそひそ声で会話する私たちを、スタッフさんたちが笑いを堪えながら見守っている。うちの父は図体がでかいくせに小心者で、ここぞという時にお腹を壊す。

 覚悟を決めたらしい父がようやく左腕をあげたので、そっと右手を添えた。姿勢を正して、今は閉じられた、チャペルへ続く重厚なドアが開かれる時を待った。


 今日、私は、佐倉里香から松江(まつえ)里香になる。


 あの後、年が明けてすぐに私は東吾の部屋に引っ越し、二人暮らしをスタートさせた。春からは神崎室長に紹介してもらった職場で、秘書として働き始めている。

 三星の新社長には、前田常務が就任した。副社長と専務は別子会社の取締役にそれぞれ移動になり、新体制に移行した後も業績は伸び続けている。東京国際銀行との取引も、無事に成立したらしい。

 東吾が上條東吾から松江東吾に戻るためには、いろいろと煩雑な手続きがあったらしい。上條家から完全に縁を切るのに結局半年かかった。その他、仕事の引継ぎや関係各所への諸々の処理に追われ、ようやく落ち着くころには夏が終わろうとしていた。そんな彼は、次の春から大学時代の恩師に紹介されたという研究所で、念願の研究員として働くことが決まっている。