「ひなは誤解してるな」
「ああ」

 二人の話は、そんな風に始まった。

「郁。セックスって言葉を聞いてどう思う?」

 僕はどきっとして、うつむきながら答える。

「……怖い。でも気持ちいいらしい」

 僕の言葉を聞いて桐人さんはため息をついて、お父さんはうなずいた。

「怖いって部分は、ひなが植え付けたな」
「いいんじゃないか? 気持ちいい部分は伝わってるし」
「だ、だって」

 僕はうろたえながら言う。

「子どもができちゃうんだよ」
「それの何が悪い」

 お父さんはしれっと僕に言う。

「大変なことだって? まあな、すげえ大変。けど俺は夢が叶ったぞ。郁はキャッチボールは嫌がったが、一緒に星を見に行ってくれる」

 僕は首をかしげて、助けを求めるように桐人さんを見る。

「郁、斗真の言葉をそのまま受けるなよ。こいつ、自分でも言うけどすごくチャラい男なんだ」

 桐人さんは呆れたようにぼやいて、お父さんの頭を小突く。

「いて」
「俺はそんなに気持ちよくなかったぞ。あと、郁を育ててくれたのはひなだろうが。ひなの苦労は俺やお前の比じゃねぇ」

 桐人さんは呆気に取られている僕を見て、ふいに笑う。

「変な感じか?」
「うん。ひなちゃんの話してたことと違う」
「そうだな。ひなは繊細だから」

 桐人さんはぽつりと言う。

「でもそれは悪いことでも何でもなく、ひなの性格なんだ。俺は好きだよ」

 見上げた僕に、桐人さんは心配をにじませた声で告げる。

「先生のことがあったから、郁もセックスを怖がらないかと心配になった。だから俺と暮らさないかって勧めたんだ」

 お父さんもおどけながら、声は真剣に言う。

「その間、ひなはしばらく駄目な弟とでも暮らしてさ。ちょっと気楽に恋でもしてもらおうと思って」
「やめろ。ひなは他の男にはやらねぇ」

 二人は目を合わせて苦笑する。

 僕はちょっと黙ってから言う。

「ひなちゃんは自分のこと、好きじゃないね」
「俺や桐人を嫌う代わりにそうしてる節があるな。ひなは恋もセックスも、自分の性も、怖いんだろうな」

 ふいに桐人さんはたばこの火を消す。

 暗がりの中で、桐人さんは僕たちに話しかける。

「俺は男になったが、今でもひなの親友なんだ」

 お父さん、僕を順に見て、桐人さんは言う。

「斗真も男だが、弟だし。郁はもうすぐ大人になるが、ひなの子どもだ」

 お父さんもたばこの火を消す。

「……ただそれだけなんだとひなが気づくまで、俺は一歩離れて待ってるよ」

 そうだなとお父さんが言った。

 僕も鼻先に残るたばこの香りを感じながら、目を閉じた。








 夏休みの最終日の朝のことだった。

 お父さんとひなの新居で、僕は朝ごはんを食べた。

「郁、バターは?」
「このままでいい」

 ひなが作った丸パンを、何もつけずに食べる。次いつこの味が食べられるかはまだわからない。

「めんたいマヨネーズとかあるよ」
「朝からマヨネーズなんて」
「ひな」

 ひなが差し出した調味料を断った僕を見て、お父さんが口を挟む。

「郁の好きなようにさせなよ」

 黙ってしまったひなを見て、マヨネーズを使えばよかったと後悔した。

 向かい側のひなを、盗み見るようにしてうかがった。

 ひなは僕と目が合うと、にこっと笑う。でもその目がとても寂しそうだった。

 後悔なら、何度もした。僕がずっとひなの側にいたなら、きっとひなは喜ぶ。

 でもそのたびに思う。僕たちはそろそろ、ゼロ距離の母子から前に進んでもいいんじゃないかな。

 僕が女性に慣れて、ひなが男の人に慣れて、二人とも自分の性が怖くなくなったとき。

 僕はずっとひなの子どもで、ひなは僕のお母さんだけど、僕らがそれぞれ一つの性を持つ人間になったとき。

 きっとそのとき、僕たちはもっと幸せになれる気がする。

 食事が終わって、荷造りの確認をしていたら、インターホンが鳴った。

「準備はできたか」

 玄関から桐人さんが現れる。僕はうなずいて立ち上がった。

「体に気をつけてね。いつでも帰って来ていいからね」
「うん」

 ひなは何度となく繰り返した言葉を告げて、僕にキャリーバッグを渡す。

 僕がキャリーバッグの取っ手をつかもうとしたとき、ひなの手と触れた。

 ひなは反射的に僕の手をつかもうとして、震えた。

 それからその手で顔を覆って泣きだした。

 声もなく、顔も見せることも拒んだ。

 ひながそういう風に悲しみをこらえてきたのを、僕は今まで知らないで生きてきた。

「ひなちゃん。不安になったら、僕を見て」

 手を伸ばして、顔を覆ったひなの手をそっと包む。

 子どものようににじんだ目、赤くなった鼻。少しだけ見えた、ひなの「お母さん」以外の顔。

「僕は元気でいるよ。笑ってるよ。幸せだよ」

 君のおかげでそういう風に生きてきたよと、いつか伝えたい。

 もう僕より小さくなった体を抱きしめて、僕は言う。

「見ていて。いつも」





――君のせいで僕は生まれて、君のおかげで生まれてきてよかったと思う。