桜を見て、夕ごはんを食べて、帰りの電車の中でのことだった。

「郁は落ち着いて電車に乗れるようになったか?」
「だいぶね。若い女性が近くにいると緊張するけど」

 私と斗真が話すのは、ほとんど郁のことだ。郁にまつわる心配ごとを一つずつ、二人で考える。

「郁はずいぶん声変わりが進んだね」
「俺より低くなるのかなぁ」

 それで郁の成長を一つずつ、二人で喜ぶ。

 夫婦みたいだねと友達に言われる。

 でもそれは違う。私は斗真と、郁を通じてしか向き合えない。

 セックスという言葉を斗真が使ったあのときから、私は斗真を恐れている。

「座りなよ」
「ありがとう」

 込み合った電車の中、斗真が一つだけ空いた座席へ導いてくれる。

 私は貧血持ちだから、斗真は必ず私に席を譲る。お礼を言って腰を下ろす。

 血流が戻って来て、じわっとした意識の中で考える。

 斗真は私よりずっと前から、自分と私が違うことに気づいていた。

 子どものときからほとんど喧嘩もしなかった。たいてい斗真は、私に譲った。

 斗真の方が大人だったんだ……と思いを馳せたとき、ぞわっと鳥肌が立った。

 私の右隣に座った年配の男性の左手が、私の足をなでた。

 ただ当たっただけ。そう思い切ろうとして、また触る。

 怖くて、身がすくんだ。喉の奥で悲鳴を殺していた、そんなとき。

「おい」

 前に立っていた斗真が、その人の手をつかんで私から引きはがす。

 斗真は男性としては華奢だけど、眼光には警察官らしい気迫がある。

 その男の人は一瞬言い訳しようとしたけど、喉が詰まったみたいだった。

 彼はぱっと席を立って逃げようとする。でも斗真は手をつかんだままだった。

 睨みあいというには一方的で、斗真は今にも男の人をなぐりつけそうだった。

「離して」

 私は斗真の腕をつかんで首を横に振る。

「ひな」
「斗真はわかってくれる」

 私は震えながらつぶやく。

「怖いの」

 私はいつも、ただ泣くのをこらえるのが精いっぱいなだけ。

 情けないけど、子どもの頃から私は斗真より弱かった。

 それを一番知っている弟は、自分が暴力を受けたように痛そうな顔をした。

「うん。知ってる」

 男の人を離して、斗真はうつむいただけだった。








 郁が待つ家への帰り道、私たちはお互いに声をかけかねていた。

 私は斗真の正義感をねじまげてしまった後悔で動けなくなる姉だった。

「ごめんな」

 そして斗真は、言葉に詰まる私より、いつも先に謝ってしまう弟だった。

「怖かったよな。ひなは悪くないんだから、気にするなよ」

 ぼんやりとした宵闇の中、半分の月が浮いている。

 今は春だから、寒くはない。でも明かりがないと、夜は怖い。

「うん。うん」

 何を言っても斗真を心配させてしまいそうで、私はただうなずいていた。

 そういうとき、斗真はごまかしたり話をそらしたりしない。

 全身の意識を私に向けながら、私が話し出すのを待っている。

「ごめんね」

 弟は私よりまじめだから、余計苦しんできた。

「私は逃げてばかりで」

 セックスがしたかったんだよ。十二年前の斗真の言葉は、何も嘘じゃない。

 斗真は本当に彼女が好きだった。だからセックスをした。

 彼女が斗真と生きてはくれないと知っていても、斗真は自分の気持ちから逃げなかった。

「私は恋からもセックスからも、逃げてるのに」

 斗真のように苦しみぬく自信がない。

 男性が怖い。それ以上に、弱い自分が一番怖い。

 うつむいた私に、斗真が立ち止まる。

「ひな」

 私が顔を上げると、斗真は困ったように笑っていた。

「郁を育てたのは誰だ?」

 私、と答えた私に、斗真は言う。

「そうだよ。俺と希理子(きりこ)は逃げたのに、ひなは逃げなかった」

 久しぶりに斗真の口から彼女の名前を聞いた。

 いつも「あいつ」と小声でつぶやくだけ。郁の話はたくさんするけど、斗真は彼女の話を避けるから。

「ひなは恋よりセックスより、大きなものに向き合ってきただろ。自信を持てよ」

 瞳を揺らした私を、斗真は私より高い目線から、いたわりをこめて見下ろす。

「俺は男だよ。ひなとは違う」

 いつしか気づいた。私と違う優しさを、彼は持っている。

「ひなが抱きしめてほしいって言うなら、抱きしめるけどさ。ひなが抱きしめたいのは俺じゃないだろ」

 いたずらっぽく笑う。私も自然と頬がほころんだ。

 また歩き出したら、そろそろ家のアパートが見え始めた。

 足が速くなる。心が弾んで、気持ちが暖かくなる。

 よかったと、心のまんなかで思う。

 斗真のおかげで、十二年もあの子とゼロ距離にいられたんだ。

 自室の前まで来て、鍵を開ける。ぱたぱたと足音が近づいてくる。

「ひなちゃん、おかえり!」

 私は腕を広げて、一番抱きしめたい存在を胸に迎え入れた。