旅行に行こうよと、彼は誘った。
私には双子の弟がいる。
名前は斗真(とうま)。十八歳、高校生のときに父親になった。
「郁(いく)も行く?」
「なんで父さんなんかと。あと、そのネタ使いすぎ」
十二歳になる郁は、年頃だから父親にそっけない。
「ちょっとやせた?」
でも郁は、離れて暮らす父のことをいつも心配している。
斗真は少しだけ目を泳がせて、にこっと笑う。
「なんだよ。やめてよ」
「じゃ、ひな。土曜日の朝八時に迎えにくるから」
ぽんぽんと郁の頭をなでて、斗真はポケットに手を突っ込んで去っていった。
斗真と私の顔立ちはよく似ていて、笑い方もそっくりだ。
さっきの表情はごまかすときの私の笑い方と同じだった。
またなんだろうか。
気がかりな思いを抱えながら、私はカレンダーを見上げた。
子どもの頃から、よく斗真と旅行に行った。
「ミュージカルを見に行こう。ひなの好きな演目がやってるよ」
チケットの手配から道案内まで、斗真はそつなくこなす。
斗真は明るくて通りのいい声、白いシャツの似合うすらっとした体格をしている。
友達からは好青年だねとよくうらやましがられた。
「何時開演?」
「十三時から」
「じゃあお昼を食べて行くとして、その前に」
私は道の脇にある、小さな銭湯を指さす。
「お風呂に入っていこう。好きでしょう?」
斗真は困ったように口の端を下げて笑った。
都会の隅っこ、時代から忘れられたような古びた銭湯には、私たちの他に誰もお客さんはいなかった。
「ひなに隠し事なんてできないのに。俺も無駄な努力をするよな」
男湯と女湯、私たちは壁一枚挟んで言葉を交わす。
「またひどい境遇の子を見たのね」
「うん」
斗真は警察官をしている。彼が日ごろ相手にするのは、児童相談所から通報を受けた子だ。
「体中あざだらけだった。なんでもっと早く助けてやれなかったんだろう」
クリーンなイメージを持たれる警察官だけど、彼らの日常はぎりぎりの世界だ。
「子どもを殴るなよ。痛いに決まってるだろ……」
斗真は器用そうな外見とは違って、ひどく傷つきやすい。
かわいそうなくらい悩み、苦しむ。それでも彼はその仕事を続ける。
ただ時々こうやって一緒に旅行をして、少しだけ気を抜いたときにだけ、斗真は弱音を吐くのだった。
銭湯から出て、近くのうどん屋さんに入る。
「郁は背が伸びたな」
うどんを待つ間、斗真はぽつっと言う。
「しっかりしてきたよ。最近は私にも言い返すようになった」
「どんどんあいつに似てきてる」
斗真は苦笑をこぼす。
まもなくうどんが並べられて、私たちはそれぞれ箸を取る。
「郁はじきに独り立ちしちゃうかな」
私は斗真に不安を打ち明ける。
斗真も沈黙して、私たちは箸を持ったまま、しばらく下を向いていた。
舞台を斗真と二人で見ながら、郁が生まれたときを思い出す。
セックスがしたかったんだよ。病棟で斗真は私に言った。
俺、チャラいからさ。男なんてそんなもの。
だからさ、ひな。俺を放っておいて。
「できるわけないでしょう!」
舞台の上で女優が叫ぶ。
「愛してるのよ!」
あんな風に高らかに愛を叫べたらいいなと思う。
私の知っている愛は、長い間そばにいた存在に、ふと感じるもの。
あの日の病棟、大きな感情に押しつぶされそうになりながら、食い入るように手術室の扉をみつめていた弟。
私と斗真は仲がよかった。お互いに何でも打ち明けたし、何も遠慮しなかった。
でもずっとゼロ距離にいたから、その存在は当たり前すぎて、お互いの顔も見ていなかった。
斗真が初めて私から距離を取ったから、そのときようやく彼をみつめた。
それでやっと気づく。彼は私と違う。
だから斗真に言った。
放っておくなんてできないよ。助けてって、目が泣いてるもの。
ミュージカルの後、斗真と夜桜を見に出かける。
「きれいね。私、今年初めてゆっくり桜を見たよ」
川沿いを斗真と並んで歩く。
「ありがとう。連れてきてくれて」
今の私の世界は、郁を中心に回っている。
年の数え方、行事の予定。郁の変化についていくだけで大変で、でも楽しみ。
「ひなはどうして今も俺と旅行に行ってくれるんだ?」
ふと見上げた弟は、また目が泣いていた。
「郁を育てるのに精いっぱいで、恋もできなかった。俺のせいで、ひなは二十代の時間を失くしたようなものだろう?」
一拍だけ沈黙したのは、少し胸が痛んだからだった。
斗真の言う通り、失くしたものはたくさんある。
でも、でもね。
「今は満開の桜の中には立ってないけど」
夜桜を仰いで、私は誰にともなく笑いかける。
「でも私は十二年前より、今の私が好きだよ」
それだけは自信を持って言えるのが、私の幸せの形なのだった。
私には双子の弟がいる。
名前は斗真(とうま)。十八歳、高校生のときに父親になった。
「郁(いく)も行く?」
「なんで父さんなんかと。あと、そのネタ使いすぎ」
十二歳になる郁は、年頃だから父親にそっけない。
「ちょっとやせた?」
でも郁は、離れて暮らす父のことをいつも心配している。
斗真は少しだけ目を泳がせて、にこっと笑う。
「なんだよ。やめてよ」
「じゃ、ひな。土曜日の朝八時に迎えにくるから」
ぽんぽんと郁の頭をなでて、斗真はポケットに手を突っ込んで去っていった。
斗真と私の顔立ちはよく似ていて、笑い方もそっくりだ。
さっきの表情はごまかすときの私の笑い方と同じだった。
またなんだろうか。
気がかりな思いを抱えながら、私はカレンダーを見上げた。
子どもの頃から、よく斗真と旅行に行った。
「ミュージカルを見に行こう。ひなの好きな演目がやってるよ」
チケットの手配から道案内まで、斗真はそつなくこなす。
斗真は明るくて通りのいい声、白いシャツの似合うすらっとした体格をしている。
友達からは好青年だねとよくうらやましがられた。
「何時開演?」
「十三時から」
「じゃあお昼を食べて行くとして、その前に」
私は道の脇にある、小さな銭湯を指さす。
「お風呂に入っていこう。好きでしょう?」
斗真は困ったように口の端を下げて笑った。
都会の隅っこ、時代から忘れられたような古びた銭湯には、私たちの他に誰もお客さんはいなかった。
「ひなに隠し事なんてできないのに。俺も無駄な努力をするよな」
男湯と女湯、私たちは壁一枚挟んで言葉を交わす。
「またひどい境遇の子を見たのね」
「うん」
斗真は警察官をしている。彼が日ごろ相手にするのは、児童相談所から通報を受けた子だ。
「体中あざだらけだった。なんでもっと早く助けてやれなかったんだろう」
クリーンなイメージを持たれる警察官だけど、彼らの日常はぎりぎりの世界だ。
「子どもを殴るなよ。痛いに決まってるだろ……」
斗真は器用そうな外見とは違って、ひどく傷つきやすい。
かわいそうなくらい悩み、苦しむ。それでも彼はその仕事を続ける。
ただ時々こうやって一緒に旅行をして、少しだけ気を抜いたときにだけ、斗真は弱音を吐くのだった。
銭湯から出て、近くのうどん屋さんに入る。
「郁は背が伸びたな」
うどんを待つ間、斗真はぽつっと言う。
「しっかりしてきたよ。最近は私にも言い返すようになった」
「どんどんあいつに似てきてる」
斗真は苦笑をこぼす。
まもなくうどんが並べられて、私たちはそれぞれ箸を取る。
「郁はじきに独り立ちしちゃうかな」
私は斗真に不安を打ち明ける。
斗真も沈黙して、私たちは箸を持ったまま、しばらく下を向いていた。
舞台を斗真と二人で見ながら、郁が生まれたときを思い出す。
セックスがしたかったんだよ。病棟で斗真は私に言った。
俺、チャラいからさ。男なんてそんなもの。
だからさ、ひな。俺を放っておいて。
「できるわけないでしょう!」
舞台の上で女優が叫ぶ。
「愛してるのよ!」
あんな風に高らかに愛を叫べたらいいなと思う。
私の知っている愛は、長い間そばにいた存在に、ふと感じるもの。
あの日の病棟、大きな感情に押しつぶされそうになりながら、食い入るように手術室の扉をみつめていた弟。
私と斗真は仲がよかった。お互いに何でも打ち明けたし、何も遠慮しなかった。
でもずっとゼロ距離にいたから、その存在は当たり前すぎて、お互いの顔も見ていなかった。
斗真が初めて私から距離を取ったから、そのときようやく彼をみつめた。
それでやっと気づく。彼は私と違う。
だから斗真に言った。
放っておくなんてできないよ。助けてって、目が泣いてるもの。
ミュージカルの後、斗真と夜桜を見に出かける。
「きれいね。私、今年初めてゆっくり桜を見たよ」
川沿いを斗真と並んで歩く。
「ありがとう。連れてきてくれて」
今の私の世界は、郁を中心に回っている。
年の数え方、行事の予定。郁の変化についていくだけで大変で、でも楽しみ。
「ひなはどうして今も俺と旅行に行ってくれるんだ?」
ふと見上げた弟は、また目が泣いていた。
「郁を育てるのに精いっぱいで、恋もできなかった。俺のせいで、ひなは二十代の時間を失くしたようなものだろう?」
一拍だけ沈黙したのは、少し胸が痛んだからだった。
斗真の言う通り、失くしたものはたくさんある。
でも、でもね。
「今は満開の桜の中には立ってないけど」
夜桜を仰いで、私は誰にともなく笑いかける。
「でも私は十二年前より、今の私が好きだよ」
それだけは自信を持って言えるのが、私の幸せの形なのだった。