「邪魔するな、素人」

少女はこちらを見向きもせずに言う。
凛と立つ今の姿には、初対面のあの根暗そうな雰囲気など一切見当たらなかった。

『素人』

(ええええ……)

高い声は随分と冷たく感じられて、閏乃は思わず泣きそうになった。
そうして彼女の手に握られている鈍く光る錫杖。
閏乃が持つものよりずっと長い尺のそれをどこに隠し持っていたのか。
思わず右眼を擦ってもう一度見やる。
艶やかな黒髪、華奢な体、小さな鼻筋に、尖った顎。

やはりあの少女に間違いはないようだ。

――しかしあの病んだ顔は今や見る影もない。
暗く胡乱だった少女の顔は、今やその眼光に惹かれる力強さへと変わっていた。
小さな顔がちょっとかわいい。
こんな状況化で閏乃が考えてしまう程度には、少女は愛らしい顔立ちをしていたのだ

(じゃあアレはなんだったんだ?)

アレ、とは要するに先程の誹謗中傷…であるわけで。
釈然としないなにかがまだ在るのは否めない。

「というより俺はなんで蹴られたの?」

そうして今一番の疑問を口にすると、少女は表情を動かしもせずに言った。

――「鬼」の腹に錫杖を突き刺しながら。


「これは私の獲物だから。君に邪魔される謂われもなければ、助けてもらう謂われもない」

しゃらん。
彼女の持つ錫杖に付いた環が鳴る。
裏高野のものとは違う、少し痩身で銀色に近い金のそれ。
少女はするり、呆然とする閏乃の視界から抜け出して、逃げ惑う〝鬼〟の脇腹にもう一度錫杖を叩きつけた。

『ぎゃ、ぁあっ』

三日月を象った四つの装飾の先が、「鬼」の肉に突き刺さったらしい。
血が飛び散り、ずるり、鬼の脇腹は窪んだ。
痛みに唸って飛び退く鬼。
ひいはあと荒く息を吐いて、体液を滴らせている。
自分の錫杖に掛かっていた負荷から解放された閏乃は、ぼんやりと少女を見やる。
淡々とした横顔は形だけなら愛らしい。

愛らしい、が。


「えげつなー……」

顔色ひとつ変えずに「鬼」を殴る女の子なんて初めて見た。

「リカちゃん人形」を依代に〝餌〟を作るやり方も悪どい。


『……うぐぅ』

閏乃が怖くなっていると、床から這いずり上がった鬼が彼女目掛けて突進しはじめた。
そこから目を離さず、少女は薄い唇をゆっくりと開く。

「甘ったれな君より百倍マシだよ。ノロマ閏乃」

ガサガサと床を這う「鬼」の音に掻き消される前に届いたそれは、れっきとした悪言、誹謗中傷だった。

『――ノロマ』

まさか鬼と殺し合いをしている最中に、しかも和平協定を組むという相手からそんなことを言われるとは思ってもみなかった為、つい反応が遅れる。
そんな閏乃を他所に、彼女は口を閉じなかった。
目前には鬼が迫っているというのに、大した落ち着きぶりである。


「君みたいにどんくさい〝鬼喰み〟が居るから、出なくて済む死人が出るんだ、閏乃」

――悪態にしては性質が悪すぎる。
あまりの事に呆然とするしかない閏乃をさしおき、少女は軽やかな足取りで鬼を避けた。
避けられながら、それでも凶爪を伸ばす鬼に錫杖を振り上げる――しなる胴が響いたかと思えば、一瞬遅れて、鬼の口から断末魔が響き渡った。

「鳴くな、人が寄ってくる」

耳を塞ぎたくなるような悲鳴の中、少女は相変わらずだった。
のたうち廻る鬼を前に、血が付着した錫杖を払う。
少女の言葉からすると、ここ保健室周囲に結界は張られていないらしい――となると。

(早期解決がイチバン)

見れば時刻は午後六時四十分。
活動を終える部活がちらほら出てくる時間帯だ。
下手に鬼の声を聞かれでもしたら大変なことになる。
本来ならば、公共施設内で鬼と討ち合う場合は結界を張らなきゃならない規則。
しかし結界系が苦手な閏乃は、結界を張る変わりに時間を短縮するようにしているのだ。

「……」

しかし、それを少女に伝える勇気が沸かない。
自分が臆病でヘタレなのは承知しているが、あの冷たい声色は正直怖かった。
そうこう閏乃が悩んでいる間にも、鬼は立ち上がり少女に向かおうとしている――閏乃のことなど完全に眼中にないらしい。
壁際に立つ少女の体が鬼に隠れた、瞬間。
閏乃が走る。

「ごめんね」

――強行。

ボッ。


『!』

岩のような背に貼り付けた掌が、短い呪で勢いよく燃え上がった。
初段、火家(かち)の八門。
周囲にぽつぽつと沸く火の粉は瞬く間に繁殖し、鬼の体を隙間なく纏う。

『……っぎぃぃいいっ』

赤い衣を纏ったような形で鬼は灼熱に燃えた。

「そこ、倒れてくるよ」

それを正面から見つめている少女の腕を掴み引き寄せる。
華奢な体は、美しく燃え上がる炎を前に少しだけ静かになっていた。
破魔札なしで火家(かち)を使えるのは、火の申し子である閏乃の専売特許――それが珍しいのかと、閏乃は判断する。

少女が鬼の前から退かされた瞬間、鬼の躰はふたつに別れ、ひとつは肉の焦げる臭いがして黒い炭になった。

バサリッ。

質量のある炭の粉が壁を伝い、床に溜まる。
そうして残ったもうひとつの躰は。
――予想外だった。

司馬に憑いていた鬼を祓い落としたあとになにが残るかと言えば、端正な顔立ちの、柔和な彼しか居ないと思っていたのだが。
しゅうしゅうと火家がもたらせた赤い煙。

「うっ、ぅぅ」

そこに座り込んでいたのは、閏乃の四倍はありそうな巨漢――腹は三重四重に垂れ、ぱんぱんに膨れた顔にはニキビがところ狭しと並んでいる。
さらさらだった筈の髪は痛々しい限り、ところどころ抜けて頭皮が露になっていた。

「ぁ、ああ……」

枯れて肉の籠った声。
火家にやられた衝撃だろう――実際は、人体にさして影響はない破魔だったのだが――腫れぼったい口からは涎が垂れ、生えた無精髭を濡らしていた。
少女はただ黙って現れた「彼」を見下ろしている。

「おまぇのせいだ。こんなみにくいぼくには、もう二度と、もどりたく、なか、ったのにぃい…」

今にもはち切れそうな両手を目前にかざし、司馬であった「男」はわんわんと泣き出してしまった。

(……もしかして)

彼が鬼に憑かれていたのではなく、彼が鬼にとり憑いていたのではなかろうか。
彼の欲望と切望に引き寄せられた鬼が、とり憑こうとして逆にとり憑かれたのかもしれない。
彼は泣き続けた。
ひくりひくり、鼻を鳴らしてはガマのように鳴く。

「おまぇ、らにはわからない。みにくいぼくのきもちなんて、わからないぃいい……」

閏乃はただ呆然と困ってしまった。
彼の気持ちやコンプレックスは、確かに自分達には解らないことなのかもしれない。
一般的に形容して、良い意味でも悪い意味でも、さして浮かない程度の顔立ちではあると自覚してる。
けれど彼は、そうはいかなかったのだ。

ずるり。

重い体から涙が滴る度に、暗闇が彼を包み込むようなそら恐ろしい感覚。


「……解ってたまるか」

しかしそれまで黙りこくっていた少女が静かに口を開いた。
吐き捨てるような台詞に、閏乃は思わずぎょっとしてしまう。

「自分は醜い。だから美しくなりたい、美しくなりたい……。なんの努力もしようとしないで、鬼の力を利用してヒトを喰らうような男に同情なんかしない」

きっぱりと言い放った。
けれど彼女もちょっと辛そうだ。
常識と良心は全てのヒトに共通する物事のルール。
だけどそれを押し付けられる人間には誰一人、同じ人間は居ないから。
彼が今までどんな思いをしてきて、どんな気持ちで堪えてきたのかなんて自分達には計り知れない。
そんな相手に、当たり前のように自分の考えを押し付けなきゃならないのは辛い。
けれど言わなくてはならない時があるのだ。
それはいつだって、互いに傷付いてしまうけど。

「……あんたが自分の為だけに喰らってきた人には、友人も家族も恋人も居た。あんたのことを愛している家族と同じように、彼らを愛していた家族が居た。失ったら悲しいって、泣く人が居た」

だってそれは、人である限り逃れられない業と似てる。
永遠に孤独の自分と、永遠に孤独にはなれない人達が確かに、居るのだ。

「……あんたが失踪して、わんわん泣いて悲しんでた人が居たよ」

それは誰か、など。
伝える必要はなかった。

その後、彼、司馬一朗は比叡本山の使者に引き取られることになった。
深夜の学校、屋上。

生憎、月は出ていない。

使者の到着が遅れているらしい――時間が無駄に早く流れていた。
誰も居なくなった校庭を眺めながら、閏乃は買ってきたミネラルウォーターを袋から取り出す。
軽い脱水症状に陥っていた司馬の為に買ってきたものである。

「司馬くーん、……と」

しかし司馬は既に眠り込んでいた。
大きな体を屋上のタイルに横たえ、鼾も荒く夢を見ているらしい。

「寝ちゃったの?」

答えを求めて、司馬から離れた位置に腰掛けている少女を見やる。

「君がコンビニに向かってすぐにね」

少女は閏乃のほうを見ようとせず、ただ静かに自分の足許を見ていた。
繰り返す、と言えるほど交わしていない会話は必ず閏乃から。

彼女から始まった会話など、全くと言っていい程ない。
キャッチボールする前にボールが見つから終いでプレイ不可。

(参ったなぁ)

空を見上げれば、遥か上空、豪々と吹き荒む風が見える。
薄く張った雲はまるで靄のようで、奥の見えない様はまるでこの少女のようでいたたまれない。
ただじっと比叡山からの迎えを待つように、少女は黙り込んだまま微動だにしなかった。

(でも、ということはこの子が比叡山の使者なわけで)

となれば、仲良くしないわけにはいかない。

(チクショウ、廻爾ジジィめ)

辻閏乃の基本的なスタンスとして、人見知り、口下手、異性が苦手、の三つが挙げられるわけだが、今回の平和協定にとってこれらはマイナス。

(ここで引き下がってる場合じゃないですよねぇええ)

無意識、深く溜め息が出る。
そうして閏乃は再び、挑むように少女を見た――が、そこには誰も居なかった。
先程まで確かに居た筈の少女は、まるで空気に溶けてしまったかのように見る影もない。

慌てて気配を探るが、閏乃のセンサーに引っかかるのは生きた人には手が出せない〝餓鬼〟ばかりで収穫すらなかった。


「えぇええ……」

居なくなってしまった比叡山の使者。
思わず情けない声が出る。
何故なら、既に頭上には比叡山から放たれた迎えが現れていたからだ。

(せめてタケコプターにしろよ)

そう閏乃が悪態をついたのも仕方あるまい。
まさか都内の真ん中に建つ高校へヘリコプターで駆けつけるとは思わなんだ。

「あ、司馬くん、起きました?」

足元に転がっていた司馬も、さすがにヘリの轟音を側に穏やかに眠ってはいられなかったらしい。
ひとりで起き上がれそうもない巨体を揺らし、しかし司馬は器用に立ってみせた。
長い間、〝鬼〟に憑かれていた為か気力の消耗が激しく、口をきく余裕すらないようではあるが。

「……あ」

プロペラの轟音が静かになった頃、高校の屋上を占拠した黒い巨体から、数人の僧が降りてきた。
一番に目立ったのは闇色に金の袈裟。
見事に剃った頭と身長の高いその男は、立ち居振る舞いがいやに丁寧だ。
他は修行僧らしい。
白と黒の組み合わせがちらほらと見える。
ヘリのライトが逆光になり見えないが、全員がまだ若い。

「……綺羅?」

金袈裟の男が呟くように言った。

『きら』

呼びかけるようなニュアンスに、それがあの少女の名前だと見当をつける。
閏乃は怯えているらしい司馬を気遣いながら、その男の前へと立った。
正直、敵山という関係にあった比叡山の人間と顔を合わすのは初めてのことで、閏乃もいい具合に緊張してはいたのだが。

(これが世紀の分岐点になるのだろうか。教科書に載るっていうなら、閏乃さんも張り切るんですがね)

などとバカなことを考えている間にライトの角度が変わり、ようやく金袈裟の輪郭と顔がはっきりする。