ぼこぼこと土が唸っていた。
深い根が怒っているのか、盛り上がるような動きを見せるがしかし決定打は出してこない。
手が出せないのだ。
閏乃が隙を見せないからである。
じりじりと皮膚を撫でる剃刀のような空気が少しずつ濃度を高くしていく。
目の前の大木は威圧感に溢れ、視覚的にも圧し潰されそうだ。
苛立ちが伝わる。
永い年月で培ってきた「精神」というものが今、猛り狂っている。

「ムカつくかよ。老いていく自分が情けないかよ」

衰えていく己がなにより、自由ではない。

「生き過ぎんのも考えもんだ、じーさん」

永く生きて生きて生きて、その永い年月は清らかな本能ですら穢していく。
永劫の中で、暗い澱をその身に溜めつづけて。

「神になるヤツもいれば、鬼になるヤツもいるさ」

ずるり。
枝がひとつ、しなる。
眼にもとまらぬ速さでそれは閏乃の体を引き裂こうと走り――燃えた。

「人を喰っちまうくらい、老いるのが厭だったかよ」

ぽつぽつ。
まるで空気が燃えているかのように火の粉が舞う。
それはあっという間に数を増やし、大木の視界を埋めるまでに。
夥しい火の粉はひとつひとつ意思を持っているかのように老木を囲み、その熱度を上げた。

「腐ったタマシイなんか燃えちまえ」

――薄暗い空に、舐めるような朱が滲んで空気が揺れる。
閏乃は相変わらず間の抜けた表情のまま、老木を囲む赤い火柱の中に腕を差し入れた。
指先から悲鳴が聞こえる。

〝鬼〟と化した大木が啼いているのだ。
老いたくない、消えたくない、無には戻りたくない、と。

ヒトには聞こえぬ声で、啼いている。老いることに恐怖を抱いた自然は、自然ではなくなると解っていながら。

(いろんな人間がお前を見に来ただろ。お前を美しいと讃えるヤツも居れば、恐ろしいとおののくヤツも居た。身勝手に見せ物にされて、悔しかったかよ)

――或いは羨ましく思ったのか。
自ら命を絶つことを許された「人間」という性に、羨望を。

「だからって鬼になったら、美しく朽ちることもできねぇのに」

閏乃の視線が少しだけ躊躇いを浮かべた。
じわり。
身に過ぎた炎をそのまま、固唾を飲む村人など知らぬふりをして。

「お前の中の鬼だけ、な」

ぶつり。
引いた指にひとつぶ、柿の実を掴んで。

「バイバイキーン」

炎の中で握り潰して、〝鬼〟に手を振った。
滴る果汁は、血のように手に纏う。

渦巻きながら炎が消えた後、以前と変わらぬ姿の柿の老木が、静かに、ただ静かに立っていた。閏乃という少年の姿もなく、村はやはり変わらぬ静謐に包まれて夜を迎える。





一週間後。

平穏を取り戻した根羽黒地に、裏高野から和紙に包まれた一通の文が届いたという。
そこには、大木が怪奇を起こした原因とその後を尋ねる言葉が小難しく並べ立てられていた。
爺はその手紙を取り、これはあの閏乃がたしなんだものではあるまい、と達筆を見て判断する。

「鬼?」

爺が村人達に文の内容を説明すると、やはり若者のひとりがそう聞き返してきた。

「あぁ、鬼だと謂う。柿の木に宿った魂が、ヒトの欲望や裏に触れて鬼と化した、そう書いておる」

爺がふわり、視線を流して大木を見た。
実をなくした柿の老木は、今日も今日とて全国から集まったカメラマンや観光客の好奇の眼に曝されている。
暴れることもヒトを喰うこともない、と手紙の最後には書いてあったが、爺はそれが少しばかり惜しいような気がしてならなかった。

「言葉も持たぬ柿の木の、唯一の言葉だったのかも知れんな」

喰われた男は気の毒だと思う。
思うがしかし、〝彼〟もまた憐れだと、閏乃という少年は思っていたのかもしれない。
黒地の柿はもう二度と実は成さないだろう。そうすれば見棄てる者達も現れる。実を成さぬ木に用はないと、侘び寂ではないと、無粋を思う人が出てくるのだろう。

――〝彼〟もまた憐れだと、少年は悼んでいる。

ゆらり、痩せた枝が、風に揺れた。