「…きらちゃんっ」

耳をつんざくような音、薬品棚が倒された。
ガシャガシャと存在していたものが崩れ去る音と共にたん、と床を叩く軽快な足音。
ひゅ、と猫又から綺羅を掠めるように動いたそれは間違いなく閏乃であり、綺羅を肩に抱えたまま、薬品棚が倒れたお陰で見通しのよくなった空間から何歩か下がる。

『己ぇえ、またおまえかあああ!』

空を切った猫又の爪はすぐさま床に立てられ、ぎらぎらとした眼がふたつ分の影を睨んだ。

「綺羅さん、大丈夫?」

しかし猫又を他所に、閏乃は床に降ろした綺羅の顔を覗き込む。

「……助けてくれなんて言っていない。邪魔するな」

覗き込んできた閏乃を猫又以上の眼力で睨みつける綺羅。
たちまち上がる閏乃の非難めいた悲鳴。

「冷たっ!ちょっとそれはないんじゃないですかねっ今瞬間温度摂氏切りましたよ!」
「五月蝿い。君のせいで喰い損ねた」
「力を合わせれば、堅い猫肉も美味しくなるかもしれませんよ、よ?ね?」
「ひとりで食べれば」
「……あのう、もう僕のハートは耐えられそうにありません」

怒り立った怪の存在を気にする風もなくぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるふたりに、猫又の怒りは沸々と強くなっていった。

(かつては何百何千という人の腸を啜り、血を糧にしてきた吾が、こんな小僧共に)

気位の高い猫らしく、猫又は蔑ろにされた己にひくり、と髭を揺らす。

『――喰い散らからしてくれようぞ!』

耳に不愉快な悲鳴を上げて猫又が牙を剥き、綺羅に爪を立てる――が、綺羅は素早く跳躍すると、閏乃の肩に着地した。

「うわっ」

いきなりの負荷に、当然、閏乃はよろめくが堪える。
目の前には牙を剥く猫又。
綺羅はすぐさま閏乃の背後に着地すると、その背中に片手を当て綺羅は言う。

      ・・・
「君の轟火、借りるよ」

え。

――どんっ……!



「うえっ」

背中を強く叩かれた。
跡が残るなんてものじゃない、内腑に直接響くような衝撃。
呼吸が苦しくなり、躯の中心が焼けるように熱いような、氷に凍るように、冷たいような――いてぇえっ。
綺羅は背後でよろめく閏乃を支え、突き刺した手をそのままに、囁くように呟いた。

「……火家、初書(はつねかく)」

それは、なんびとにも侵される筈のない呪術。
それを知るのは己だけであり、他人が口にしたところで意味すらない。
何故ならそれは、火の申し子である閏乃の、芯に生きる〝神〟の御力だからだ。

(――え、なんで)






ず 、













『っひ、ぎ、…あああああああ』


轟の合間に悲鳴が聞こえた。
それは縦横無尽に走り廻る炎の波に包まれ、酷く、酷く小さく閏乃の耳に届く。

一体、なにが起きたのか。
じわり、力の波が引いていく。
目の前には炎に焼かれる「猫」と、肉が焼け、血が沸騰する音。

「……ぅ、」

是ェ、と喉が鳴った。
凄まじい疲労感が脳と手足を覆い、身体の中にずしりと石でも凝結してしまったように重い。

(……なんで、戒が解けた?)

「解」になるような言葉を、俺はなにも口にしてない。

「……きら、さん?」

背中にで支えてくれているらしい綺羅を、呼ぶ。
目の前では未だ、何百何千という肉魂を喰らった「怪」が、身に付いた油を炎に溶かされていたが、既に悲鳴すらない。
辺りを照らす業火に、閏乃は目を細めた。

「……怪我、ないです、か?」

声まで掠れていた。
が、じわじわと体力が戻ってきているのは確かだ。
呼吸も少し楽になっている。

「ない」

綺羅がそう答えてから、閏乃は脚に力を入れた。
それを受けて、綺羅は閏乃からゆっくりと距離を置く。

(なんだか大人しいな、綺羅さん……)

う、頭が、痛い。

「身体の調子ならすぐに戻る。君の中にある戒を外部から無理矢理解いたせいで、入口がこじ開けられた反動に君の身体が驚いただけだから」

綺羅は無表情でそう口にするが、それはそんな軽々しく口に出来ることでもないし、やろうと思ってやれるものでもない。
陰陽道には、火、水、土、金、のそれぞれの属性を利用し、術者は呪(しゅ)を使役することでその力を借りることができる。
自然の力に逆らうことなく力の流れを読み、逆らわず力を借り、そして返す。
それが、裏高野、比叡山共に共通する陰陽なのである。
しかし例外もある。

火の申し子――閏乃。
産まれ出でた頃より身体と精神の属性が先天的に定められており、他の呪術も使えはするが、天性の属性であれば滅法強い、「神」の化身を意味する者である。
火の申し子である由来は、閏乃の先天属性が「火」であるからだ。
だからこそ、閏乃にしか使えない術があり、それらの源は普段、閏乃の中で眠り、閏乃自身が戒を解かなければ発動しない。
内に棲む化身は宿主でなければ操れず、触れもせず、応えもしない。
それは絶対の理論であり、他者が閏乃を利用してその力を手繰るなど不可能。
――であった筈なのだが、今までは。

「綺羅さん、今のどうやったの」

まさかそんな特異な術者が居た、なんて。
しかも敵宗に。
ぞっとしない。

(うわ、こわー。綺羅さんみたいな人が居たら、うちの宗やばいんじゃ……。でも、今まで利用されたなんて話聞かないし)

しかし当然、聞いたところで答えが帰ってくる筈もない。
綺羅は閏乃の言葉を無視し、火が消えた跡に手を合わせた。

(……あ)

冥福を祈っているのだ。
「猫」に喰われた今までの命、そして「猫」自身の冥福を。
閏乃はそんな綺羅を見、小さく頬を掻くと、綺羅に並んで手を合わせた。

(……毛、なくなっちゃった)

祈りを捧げた後、折角の小遣いのもとが見る影もないことに多少のショックを受ける閏乃であったが、人助けである。
後悔はない。

「……和尚さん達も、これで安心ですね」

寺で呪縛されている彼らも無事であることだろう。
あの結界は、恐らく「猫又」と伝導していたもの――つまり「猫又」が消滅すれば、自然、その力も無効にるわけだ。

「……こども達も、もう危険に曝されることもない」

綺羅は少しだけ安堵の色を込めて呟く。
そこで閏乃は、ああ、と廻爾に聞いていた話を思い出した。

(犠牲になった中に、確か四歳のこどもが居たって……)

元来、普通の動物や物から変化した九十九神や動物神などは人を喰らうだけの強靭な顎を持たないことが多い。
それこそ年月が過ぎてゆくに連れ、顎は丈夫になり、好んで人を食べるようにもなるが、肉は柔らかく、血は美しく、装飾もしていない産まれたてのこどもというものは、格別に美味いそうだ。
そして硬すぎない骨を持つその骨格とサイズ、肉は、猫又はじめ、九十九や動物神には恰好の獲物なのである。
だからこそ、狙われてしまうのはそういった〝こども〟が多い。
神隠しと呼ばれる現象の多くは、そうして「怪」のもの達に喰われてしまっているケースが殆どである。
勿論、本当に神隠しである場合も、あるにはあるのだが。

――こども達も、もう危険に曝されることもない

そうして閏乃は、校舎を出ていこうとする綺羅の後を追いながら考える。
なんやかんやこの血腥い仕事を仕事だと割り切る冷たい人だと思えば、そうでもない。

(多分、一番大事なものがなにか、知ってるんだろうな……)

それは万物に対してではなく、彼女は、彼女自身が通すべき芯を心得ている。

(僕ちんとは大違いですよ、廻爾和尚)