「……ねえ、石川くん憶えてる? きみがこの二年で唯一、わたしに甘い蜜をくれた日のこと」
両手で顔を覆ったままそう言うと、石川くんの「ええ?」という気の抜けた声が聞こえた。
「……二年前の四月二十五日、月曜日。わたし、名刺入れをデスクに置いて外回りに出ちゃって、……」
二年前、四月二十五日、月曜日。わたしは外回りだというのに名刺入れを忘れて出かけてしまった。それに気付いた石川くんが、走って追いかけて来てくれたのだ。
駅の構内に入る寸前で追いついた石川くんは、ぜえはあと息を切らして、汗だくで。膝ががくがく震えていた。ちょうどエレベーターが下りて行ってしまって、待っている時間が惜しいと階段を駆け下り、そのまま駅まで全力疾走したらしい。
髪から汗を滴らせた石川くんは「運動不足ですぐに追いつけなくてすみません」と。両の手の平に小さな名刺入れを置いて差し出したのだった。
「わたしのドジで迷惑かけたね、ありがとう」
言うと石川くんは首を横に振って、「迷惑だなんて思いませんよ。むしろ小松さんの笑顔を独占できて良かったです」なんて言ったのだ。
「そのときの石川くんの笑顔が、あんまりキラキラして綺麗だったから。わたしは見惚れて、少しの間呼吸を忘れたよ」
その日から、わたしは石川くんに惹かれていった、というのに。
わたしが石川くんとのエピソードを憶えていなかったように、彼もこの件を憶えていなかった。そればかりかやけに冷静な声で「キラキラしていたのは汗じゃないですかね」なんて言う。
「汗もかいてたけどさあ……」
「だって小松さん、急にこんな話をして、見惚れたなんて言ったら、まるで……」
そっと、石川くんの手が、顔を覆っていたわたしの左手首を掴む。そしてゆっくりと、顔から引き剥がされた。
目に映った石川くんは、目をキラキラ輝かせ、でも少しの疑念と戸惑いを含んだような表情をしていた。
「まるで、なによ」
続きを促すと、石川くんはわたしの左手首をぎゅうっと握る。そして微かに唇を震わせながら、……
「まるで小松さんが……僕のこと……好きだって言っているような……」
ここまできたら、もう隠す必要もない。あれこれ口走ってしまっても、高熱のせいにしてはぐらかさなくてもいいのだ。だから「そうね」と肯定したのに、石川くんときたら……。



