受付から香さんが現れて、一言だけ伝えたそうに海知先生に声をかけた。
「お取り込み中、恐れ入ります。次は、いつ海知先生が代診でお見えになりますかって、オーナーからの質問が殺到してますよ」
嬉しそうな声に、海知先生が釘付けだった論文から香さんに視線を馳せる。
「あっという間に、うちに溶け込んで。代診じゃなくて常勤でお願いしたいわ」
よく喋る海知先生は、こんなとき決まって冗談で返すのに視線を香さんに向けたまま、珍しく黙って聞いている。
いつもと違う。香さんが受付に戻って行く姿を見送ってから聞いてみた。
「香さんは話したいことを話したら、相手から答えを欲しがるんじゃなくて、話してすっきりするタイプっぽいから、口をはさまずに話をさせた」
また、すぐに論文に目を落とす。香さんのは理に適っている。
それもだし、こだわり屋さんの勉強家は、夢中で読む論文の邪魔をされたくないんでしょ。そっと席を外した。
獣医療も、人間の医療並みに日進月歩の勢いで発展し続けているから、今は最新でもすぐに新しいものに変わってしまう。
うかうかしていると取り残されるって、まるで毎日が生き残りをかけた戦いのよう。
根を詰める勢いを和らげようと、頃合いを見てコーヒーを入れた。
「お疲れ様です、どうぞ。一息つきませんか」
「ありがとう」
論文から視線を移して、私の顔を仰ぎ見る。
「おいしい。砂糖なし、よく覚えてたな」
「私をお忘れですか? つい最近まで小川の人間でしたよ、覚えてますよ」
「二十人近くいるスタッフ全員の好みを把握してたよな、感心するよ」
笑顔を浮かべたあとに、また論文に目を落とすから、そっと席を外して薬棚に向かった。
注射針がずいぶん溜まった。廃棄処分のためには翼状針のチューブを切らないとね。
左手に鉗子、右手にハサミを持って切り離していく。
ふだんは、臨機応変な働き方をしているからか、たまに注射針の廃棄処分みたいな単純作業をすると、自分の世界に入り込んで“無”になれるから好き。
入院患畜と今日外来予約の患畜カルテやデータは、予め院長が海知先生に送っていてくれた。
さすが院長、モカも怪しいからって。
おかげで、どの子の診察もスムーズに進んで、滞りなく一日の業務を終えることができた。
帰ろうと三階に上がる私の後ろを、海知先生がついて来る。
「何か用ですか」
「このまま帰れるか」
「やだ、変な気おこして」
「口説いてねえ。着替えるって意味だ。間違っても男と不細工は口説かない、俺を見くびるな」
「その汚い口縫いますよ。海知先生、先に着替えてください」
「なに恥ずかしがってんだ、男同士で」
「本気で、目ん玉にアル綿突っ込みますよ」
「お取り込み中、恐れ入ります。次は、いつ海知先生が代診でお見えになりますかって、オーナーからの質問が殺到してますよ」
嬉しそうな声に、海知先生が釘付けだった論文から香さんに視線を馳せる。
「あっという間に、うちに溶け込んで。代診じゃなくて常勤でお願いしたいわ」
よく喋る海知先生は、こんなとき決まって冗談で返すのに視線を香さんに向けたまま、珍しく黙って聞いている。
いつもと違う。香さんが受付に戻って行く姿を見送ってから聞いてみた。
「香さんは話したいことを話したら、相手から答えを欲しがるんじゃなくて、話してすっきりするタイプっぽいから、口をはさまずに話をさせた」
また、すぐに論文に目を落とす。香さんのは理に適っている。
それもだし、こだわり屋さんの勉強家は、夢中で読む論文の邪魔をされたくないんでしょ。そっと席を外した。
獣医療も、人間の医療並みに日進月歩の勢いで発展し続けているから、今は最新でもすぐに新しいものに変わってしまう。
うかうかしていると取り残されるって、まるで毎日が生き残りをかけた戦いのよう。
根を詰める勢いを和らげようと、頃合いを見てコーヒーを入れた。
「お疲れ様です、どうぞ。一息つきませんか」
「ありがとう」
論文から視線を移して、私の顔を仰ぎ見る。
「おいしい。砂糖なし、よく覚えてたな」
「私をお忘れですか? つい最近まで小川の人間でしたよ、覚えてますよ」
「二十人近くいるスタッフ全員の好みを把握してたよな、感心するよ」
笑顔を浮かべたあとに、また論文に目を落とすから、そっと席を外して薬棚に向かった。
注射針がずいぶん溜まった。廃棄処分のためには翼状針のチューブを切らないとね。
左手に鉗子、右手にハサミを持って切り離していく。
ふだんは、臨機応変な働き方をしているからか、たまに注射針の廃棄処分みたいな単純作業をすると、自分の世界に入り込んで“無”になれるから好き。
入院患畜と今日外来予約の患畜カルテやデータは、予め院長が海知先生に送っていてくれた。
さすが院長、モカも怪しいからって。
おかげで、どの子の診察もスムーズに進んで、滞りなく一日の業務を終えることができた。
帰ろうと三階に上がる私の後ろを、海知先生がついて来る。
「何か用ですか」
「このまま帰れるか」
「やだ、変な気おこして」
「口説いてねえ。着替えるって意味だ。間違っても男と不細工は口説かない、俺を見くびるな」
「その汚い口縫いますよ。海知先生、先に着替えてください」
「なに恥ずかしがってんだ、男同士で」
「本気で、目ん玉にアル綿突っ込みますよ」


