意思も感情も持たなくなり、諦めかけた放心状態の私に、院長の大きく温かな手が再び現実の世界に引き戻してくれた。

 私の左手をそっと掴んだ院長の手は、私の心も掴んで安心させてくれた。

「もう大丈夫、あと一歩だ。怖くないから安心して出て来い」

 握る手には力がこもっていて、引き寄せる力には優しさがこもっている。

「いいぞいいぞ、その調子。ヴァンスもいい子だ。Dが嘘みたいだ、Good Boy」

 ヴァンスから目を離さず、話しかけ続ける院長との距離が、ゆっくりとゆっくりと近づいていき、院長の息遣いまで聞こえる胸もとにまで引き寄せられた。

 ケージから出られたんだ、まるでスポンジの上に立っているみたい。
 足腰が定まらないで腰が抜けて、ふらふらする。

「ヴァンス、いい子だ、最後まで、よく我慢して偉かった。おやすみ、先生また明日来るからな」

 院長は私の手をしっかりと握ったまま、ヴァンスに優しく声をかけて、ケージを閉めて鍵をかける。

 ふだん、汗をかかないのに助けられたとたん、じんわり手汗がにじんだ。

 汗ばんだ手を、院長に握られているのが恥ずかしくて、顔が脈打ちながら熱くなる。

「院長、手」
「いいから来い」

 言いかける私の言葉に、言葉をかぶせる横顔は引きつっていて、声は低くゆっくりと響き尋常じゃない。

 きっと、こっぴどく叱られる。

 極限の恐怖から解放された全身は、床に吸い込まれていきそうに脱力して、ふらつく足は、上半身に追いつけない。

 そう、意思とは関係なく前に出る感覚という感じ。
 院長に引っ張られるままについて行く。

 二度と離さないような強い力で手をつなぐ院長が、三階に向かって階段を上がって行き、休憩室に入った。

 心も体も敏感に反応して、院長がそっと閉めるドアの小さな音にさえ、肩先がぴくりと持ち上がる。

 呼吸音さえ消さなくちゃいけないみたい。

 室内の息詰まる雰囲気は、耐えられないほど、しんと静まり返っている。お願い、なにか話しかけて。

 私の手を握ったままの院長が、振り向きざまに、私を手前に引き寄せ、自分の方に向かせた。

 院長の蒼みがかった引きつっている表情からは、とんでもないことをしてしまったことが読み取れる。

 このあと、烈火のごとく叱られるのは一目瞭然。

 握った手を微かに握られただけなのに、とっさに肩をすぼめ、ぎゅっと目を閉じ、体は石みたいに固くなって緊張が走る。

 物音ひとつしない、数秒間の静寂が気にかかり、そっと目を開けると、予想を遥かに超える光景が目に飛び込んできた。

 目の当たりにした頭は、状況についていけなくて、心は戸惑い混乱する。