「これ」
 真顔から、余裕ありげに口角を緩ます院長が、シャンパングラスを静かに揺らす。

 ちょっと、それってどうよ。わざとだし、まぎらわしいから、体から力が抜けた。

「お酒ですか、びっくりさせないでください」
「びっくりさせないでくださいだって? どきどきさせないでくださいの誤りだろう」

 眉間にしわを寄せた八の字眉の下では、細めた目の奥が楽しそうに笑う。

 人を散々どきどきさせておきながら、何事もなかったように、正面のアルコールの棚を見ている。

 その瞳を被う長く濃い睫毛や、高い鼻が美しすぎて無意識に見つめていたみたい。

「また、人の顔をじっと見ている。気をつけろ、男は勘違いする」
「動物を観察する癖が身についてるんです」

 そわそわしながら言うと、ふんと鼻を鳴らして結んだ口角を上げ、なにかを見透かしたように嬉しそうに笑って見ている。

 院長が、顔をバーテンダーのほうに向けた。
「サイドカーと......ライラで」

 バーテンダーが一瞬、口笛を吹く仕草をして微笑んで頷く。もう、さっきからみんなばっかりなに?
 また秘密だ、ずるい。

 少し照れくさそうな院長が、さりげなく聞いてくる。

「仕事はどうだ?」
「まだまだです」
「自分を過小評価するな、川瀬は、ゆっくりと成長している」
「ありがとうございます、でも完璧とはいえません」

「それが過小評価の原因だ。完璧を求めると疲れもするし、あまりいいことだとは思えない」
 返事の代わりに、首を傾げて頷く。

「納得いかないか。完璧な人間なんていないし、そんなものは欲しくない、そのままでいい」

「まだまだ、私は頑張らないといけないんです。院長は頑張れって励ましてくれませんよね」

 お酒の力が心を大きくして、大胆なことを口走った。
 ここぞという場面で励ましてもらえないと、けっこう寂しい気持ちになる。

「頑張れは、伝える側の一方的な気持ちだと思っている。大切なのは本人の気持ちだ。川瀬の頑張りたくない想いも大事にしたい」

「頑張りたくない想い?」

「負けず嫌いだから、あまり表には出してこないが、俺は川瀬の頑張りたくない想いも感じている」

 疲れたときや理不尽なオーナーに当たったときかな、私が頑張りたくないって思うときって。

「根性みたいに貯金しろ、頑張る必要があるときまで」
「根性の貯金って大雨の日の。よく覚えてますね」

 とぼけてみたけれど、階段での出来事は忘れられない。
 そんなことを考えていたら、もう胸がどきどきしてきて体が熱くなってきた。