香さんが、私たちの会話をにこやかに聴いている、院長の横顔を見ながら話し始める。

「この人、昔から恋愛とは無縁なの」 

「モテるための七つ道具をすべて与えられて生まれてきたのに、それは七不思議」

 海知先生の言葉に、院長が困ったように唇をほころばせる。

「明彦って、女好きなの?」

 海知先生は真面目に馬鹿なことを言う。香さんは真顔で、突然すっとんきょうな質問をする。

「俺の話は勘弁してくれ」
 少し唇を尖らせた。

 香さんにはプライベートで、あんなに可愛い表情を見せるんだ。

「情熱的な恋愛どころか、昔から女性の影さえないんだもの、つい最近まで」

「つい最近、なにかあったんですか」

 “海知先生、よくぞ聞いてくれました”って感じで、香さんが目を輝かせ、前のめりになる。

「この人『誰かを好きになっても、恋の病には陥ることはない』なんて、冷めた口をきいてたのに、とうとう陥っ」

「アネキ」

 院長が勢いよく隣の香さんを見て、勇み足を牽制して口をはさんで俯いた。

 こんなに慌てた院長、初めて見た。

「途中で言葉を遮っちゃったりして」
 香さんが愛しそうに院長を見ている。

「別に遮ったわけじゃ」
 筋の通った上品そうな高い鼻を、院長が人差し指で撫でる。

 舌が滑らかになってきた、ほろ酔いの香さんが、ため息をつく。

「思慮深くて、先が見えすぎる頭のよさが、恋愛感情を抑えてるのよ」

 院長は観念したのか、ロックグラスの氷を回しながら焼酎を一気に、ぐいっと口に流し込む。

 私の隣では、海知先生が香さんの言葉を待っているみたいで、口が止まった。

「昔から『愛はそんなに重要な問題か?』って、明彦はいつも私に問うわよね」
 香さんは、院長に向けて話し始める。

「頭のことは、仕事で大切にしてあげてるんだから、心のことも抑圧を解放して、大切にしてあげたら? 今までにない、別世界が広がるわよ」

 香さんの話なんか聞いていませんって感じで、院長はアルコールのメニューに目を落したまま。

「好きになったら、溢れ出す想いに最初は戸惑い、そしてあっという間に抑えきれなくなるのよ、人を愛するって」

 一度、顔を上げたけれど、興味なさそうに目を流して、またメニューに目を落とす院長の背中を、香さんが優しく撫でる。

「みんな、最初は顔に飛びつくけど、少し暗くて社交的じゃないから、最終的に女の子の方から離れていっちゃうのよ」  

 香さんが、喉を潤すみたいにグラスを手に取る。

「屁理屈ばっかり並べるから、イラっとするし」
「悪かったな」
「退屈するし。海知先生みたいに、おもしろければいいのに」

「あの、ちょっといいですか」

 香さんと海知先生が私の言葉を待ち、じっと見つめてくる。