受付から声が聞こえてくる。やっぱり座ろう。
「へえ、池峰さん、引っ越すの?」
 引っ越す? よく通る香さんの声だけが待機室に漏れ伝わってくる。

「そんなに遠いと、もううちには来院できないわね」
 池峰さん、遠くに引っ越すのか。
「急ね。じゃあ、今日が最後の来院だったのね」
 人間の心理って不思議。いなくなると思うと寂しく感じる。

 院長、律儀過ぎない? もう会わない人の話なら、私にしてくれたっていいじゃない。

「結局、傷はなんだったの?」
 香さん、オーナーのしわざですよ。

「わからなかったの? 明彦なら解明すると思ったのに、この難題は明彦の頭脳をもってしても解けなかったのね」
 解決したのに。あっ、二人だけの秘密を守ってくれているんだ。

 私に二人だけの秘密って言ったから、実姉の香さんにさえ秘密にして言わないんだ。
 院長、なんて律儀なの、律儀すぎる。

「池峰さん、明彦に気があったでしょ。わかりやすかったわ。最後だからって、なにか告白されなかった?」
 聞く? 香さん、攻めすぎ。

「好きって? やっぱりね。明彦に逢いたいから、ノンネを口実に利用して来院してたって、池峰さん白状したのね」
 確かに池峰さん、わかりやすかった。あのとき診察室で、こんな会話をしていたなんて。

「見た目もだし、話し方やしぐさで内気な性格そうに見えたけど、池峰さん頑張って試行錯誤して明彦に逢いに来てたのね。しかし悪い頑張り方よね」

 もしかして院長、私が聞いているのをわかっていて、よく通る声の香さんに話しているの?
 さっき二人のときは、首を突っ込むなって教えてくれなかったのに。

「連絡先を書いた手紙を渡されたの? ずいぶん大胆ね」
 信じられない、よほどの勇気を出したんだ。そんなに院長のことが好きだったんだ。

 それにノンネを傷つけてまでも、院長に逢いたかったんだ。

「それで明彦、あなたはどんな対応をしたの?」
 香さん、ナイスな質問です。でも、いつもの澄んだ優しい声が鋭く尖って、ワントーン下がって怖いよ。

「要するに、オーナーとはプライベートな関係にはなれない規則だと伝えて、手紙も受け取らずに丁重にお断りしたのね。模範解答ね、さすが優等生」

 ブラコン気味の香さんが院長を褒めちぎる。断ったんだ。
「うちに、そんな規則あったかしら?」
 院長をからかうような香さんの笑い声がする。
 なんかわからないけれど、肩の力が抜けて安心した。なんなの、この安堵感。

 診察券は動物病院とオーナーをつなげるツール。お財布の中で、たくさんのカードに紛れる診察券。

 なんとなく診察券と恋って似ている。“私の存在を忘れないで。なにかあったときに思い出して”

 ノンネの傷は私の恋心に気づいてっていう、池峰さんの心の叫びだったと思うと、池峰さんの切ない想いに胸がチクチクする。

 一目惚れした院長に逢いたくて仕方ない。奥手で内気な性格だから、気持ちは伝えられない。
 でも逢いたい気持ちは日増しに募る。

 なんとか口実を見つけては逢いに来ていたけれど、好きの気持ちが抑え切れなくなり、とうとうノンネを犠牲にしてまで、逢いに来るようになってしまった。

 人を好きになって結ばれる正当な方法は、いくらでもあると思う。
 たくさんあると思う方法の中から、敢えてあれは選ばないでほしかった。

 ノンネの心身を痛めつけることは、今後いっさいしないでほしい。

 それはノンネだけじゃなくて、大好きな人も傷つけちゃうんだって、真から気づけたら大切な人と結ばれるはず。