発つ者記憶に残らず【完】



「いきなり梯子を動かしたので様子を見てたんですがまさかそれを登るなんて思ってませんでしたよ。しかもあんな高さまで!落ちたらどうするんですか!」

「…うん。ごめん」

「戻って来たら戻って来たで手を血で真っ赤にして!」

「…うん」

「しかも痛くないなんてどうかしてるんじゃないですか!?」

「…そうだね」


頭ごなしにガミガミと言われ続け、反論もせずただ頷いた。いつもはあんなにナヨナヨしてるのに今は責めるような口調で頭上から圧迫するように影を落とされて、私はただただ小さくなることしかできなかった。

だってとか、でもねとか、そんなのも言える雰囲気じゃなくて、親に怒られるような気分で適当に相槌を打っていると、トーレンにガッと両肩を掴まれた。驚いて顔を上げた。


「僕の話、ちゃんと聞いてる?」


子供に言い聞かせるような少しやんわりとした声色としっかりと私の視線を捕まえてくる眼光が降ってきて、横に首を振ることができず俯くことしかできなかった。

完全に子供扱いだな…と思っていると上からため息を聞こえた。


「…ちゃんと痛覚はあるんですか?」


あ、敬語に戻った。少し落ち着いたのかな、と思いながら私も首を捻った。


「熱さは感じるから痛みを感じないわけじゃないと思うんだよね。人は温点よりも痛点の方がかなり多いから…」


と、ぶつぶつと言うと、カウンセリングみたいにトーレンから次々と質問が飛んできた。


「温度を感じるなら、その強さは?」

「強さ?…そんなのわからないよ、人並みじゃない?」

「眠気と疲れは?」

「眠れるんだから眠気はあるでしょ。疲れはまあ…精神的な疲れの方が多いのかな…歩き疲れたというよりも気が滅入ったことで疲れた気がしたし」

「食欲は?」

「美味しさを感じるからあると思う。お腹いっぱいに感じてたら私の場合は食べなくていいかな、ってなるけど」


ねえこれ何の質問?と思って見上げるとトーレンはまた暗い顔をしていた。きっとさっき引き出しをあさっていたときもこんな顔をしていたんじゃないか、と思うほどまた覇気がない。

彼の考えていることが表情から読み取ることができなかった。


「予想なんですけど、あなたはきっと感覚が鈍いのかもしれません。特に生きていくための感覚が…」

「そんなわけないじゃん。ていうか生きていくための感覚って何?」

「あなたの場合は痛感と空腹感です。痛覚はそうかな、と思っていましたが、聞いていてどうやら食への欲求もないように思われます」

「ええ?そうかなあ…」

「あとは…」


トーレンの言葉にまだあるの?と眉間にしわを寄せると、彼は私の肩に置いていた両手をスッと下ろすと、片付け忘れてテーブルの上に置きっぱなしになっていたハサミを右手に逆手で持つと、目にも留まらない速さで私の右目目掛けて振り向け寸でで止めた。

ピタリと止まったハサミの鋭い先端は近すぎてぼんやりとした銀色の細い塊に見える。


「普通ならここでビビって逃げるはずで、瞬きもするはず。なのにあなたはそれをしないしする気もありませんよね」

「……まあ、うん」


ハサミの持ち方捌きが凄いなあ、と思っていたらこうなってて恐怖を感じませんでした、と言ったところで信じてもらえないんだろうな、と曖昧な返事をしてしまった。