(……あついな)

ぞろりとこめかみから首筋に汗が垂れる。
日本にいた頃なら不快のなにものでもないだろうこの感覚にも随分と慣れた。
汗を掻くということは水分が足りているということだ。汗も涙も、口の中すらからからになるほどの渇きを知ってからは、気持ち悪い汗すら、吹き出ることが有り難く感じた。

「……そんなの、知りたくなかったのに」

どうしてこんなところにいるんだろう。
どうしてこんな目に遭うんだろう。
どうして落ちてしまったんだろう――。

千明に将来の夢なんてものはなかった。
ただ漠然と、大学に行って実家からそう遠くない場所に就職して、そこで出会いがあればいつか結婚して子供を産んで、平凡な両親と同じような、平凡な人生を送るのだと考えていた。

それ以外の人生を送るなんて、考えもしなかった。

それなのに、今のこの状況はなんだ。


(考えても仕方ない、考えても仕方ない、考えても仕方ない……考えても仕方ない)

あの傲慢な少年は言った。

『君がもっとも必要とする〝誰か〟が助けてくれる最強アイテムだよ』

そんなもの要らないからもとの場所に帰してくれと、そう叫びたい。
泣いてごねて、本人がこの場にいなくてはどうにもならないと解っているのに、私を帰して、と泣き喚いて懇願したい。
腹の底からわきあがる不安や苛立ちや恐怖、ほんの少しの興味と好奇心がぐるぐるとマーブルの渦になって千明を襲う。
それに飲み込まれそうになって、千明は反射的に顔を上げた。

目の前には、雲ひとつ見当たらない作り物めいた青空が広がっている。
恐ろしいまでに青い。
濃淡もなにもない、均一に履かれた色の広がりが、千明を突き刺す。
視界の端に太陽が映っていた。
直視していなくても、光が眼を突き刺すように痛い。眼球を覆う粘膜がじりじりと蒸発していく痛みが、千明を冷静にさせた。

(……考えなきゃだめだ。これからは教科書をなぞってるだけじゃ生きていけない。ちゃんと、この世界でひとりで生きていけるようにならなきゃ)

少年はこうも言った。

『君がいた地球とこの世界は存在する次元――宇宙自体が違う。その間を生物が五体満足で行き来したことなどかつてない。正直、僕もどうしたらいいのかわからないほどのレアケースだ。……でも、折角命あって違う世界に落ちてきたのだから、どうせなら生き延びて人生を謳歌してほしい』

人生を謳歌――。
一介の女子高生だった千明が考えもしなかった言葉だ。

人生を謳歌。
そもそも謳歌ってなに?人生を面白おかしく送れという意味?

(……帰れるか帰れないかは、まだ考えなくていい。世界を跨いだ人間が初めてだっていうなら、元の世界に帰った初めての人間になればいい)

千明はかつてない前向きさで考えた。
その間もじりじりと眼球は焼かれていたが、その痛みが今を現実だと教えてくれる。

(考えろ。この世界で生きていくには、どうしたらいい)

幸いにも言葉は通じる。
常識は通じないだろうが、それらは追々学んでいけばいい。幸いにも、魔法とやらが存在する世界だ。自分に魔力はないと少年は言っていたが、その少年自ら授けた最強アイテムとやらがある。
このカードのお陰で、あの鎧の男に助けられた――あの男に頼りきるのは癪だが、悪戯は過ぎるが悪人ではないような気もする。
ならば、この世界のことを学ばせてもらえばいい。
この世界で、千明は赤ん坊だ。
それでも言葉は通じるし、〝人間〟というカテゴリーに大した違いはないように思える。
あのサイなのかロバなのかラクダなのかはっきりしない生物とは違い、人間の見た目は人間だ。感情もある。交流ができる。

(悲観しすぎたらだめだ。失敗した高校受験のときみたいに落ち込んでるだけじゃ、大事なものを見落とす)

第一志望に落ちた千明は仕方なく第二志望の高校へと通ったが、それでも楽しい高校生活だった。はじめは落ち込んでばかりいたが、中学来の友人たちや両親が一生懸命励ましてくれて、なんとか前向きになってからは新しい友人もできた。高校生活も楽しくなった。
住めば都、と母は言ったが、まさにその通りだ。

(悲観する前に周囲をよく見て、これからどうしたらいいか、ちゃんと考えよう)

この世界にも日本人や中国人のような人間がいるのだろうか。
そう考えると、少しだけ愉しくなってきた。
決意も新たに、無意識に胸元の召喚カードを撫でたときだった。
なにやらピンク色の物体に、視界をふわりと覆われた。

「眼球バーベキューでもする気か」

聞いたことがある声だ。
こちらでもバーベキューという言葉があるのだな、と思ってちょっとおかしくなる。

「あーあ。充血してんじゃねえか」

男は千明の視界を覆っていた掌を外すと、その手で上向いていた千明の顎を戻した。
ピンクに見えたのは、男の白い掌に陽光が透けていたかららしい。
医者が患者を診るような眼で千明の両目を確認すると、男は不愉快そうに眉を寄せる。

「直視しなかったから偉いって褒めてほしいのか?サトリ砂漠の太陽は陽光を短時間視界に入れるだけでも火傷を負うほど危険なんだ。無知なら無知で、ちっとは考えて行動しろ、馬鹿が」

男は唾棄するように言ったが、それは千明を心配する言葉だ。
千明の無鉄砲さに苛立ったものだとしても、この全く知らない世界でそんな言葉を自分にかけてくれる存在がいることが、千明には嬉しかった。
例え、この召喚カードから召喚されただけのキャラクターだとしても。

(……そういえば、この人は召喚カードの中の住人なのだろうか)

疑問が湧いた。
となると、召喚カードの中にも別の世界があって、彼はそこで生きているのだろうか。
それとも昔、クラスの男子たちが勤しんでいたカードゲームと同じで、漠然とカードのキャラクターなのだろうか――。
そもそも召喚という概念がない千明には、この同じ世界からカードを媒体として誰かを呼び出すという発想すらない。

「……あの、ありがとう」

千明はそんなことを考えながら、男をじっと見返した。
真っ赤に充血した両目は泣いた後のようで、男を落ち着かなくさせる。
もしかして泣いていたのだろうか、とか、それを誤魔化すために空を見上げていたのか、とか、余計なことまで考えてしまった。

「……何に対しての礼だ」

居たたまれなくなって、男はぶっすりと答えた。
そんな男から眼を逸らさず、千明は続ける。

「今までの全部に。勝手に呼び出したのにちゃんと助けてくれた。このオアシスまで、ずっと私のペースに合わせて歩いてくれた。魔法のことはよく解らないけど……小まめに水も飲ませてくれて、ご飯も食べさせてくれた。ありがとう」

途中で騙されて土に埋められるというアクシデントもなくはなかったが、それ以外は概ね感謝してもしきれないほどのことをしてもらっている。
まあ、ご飯もゴキブリではあったが、あの状況では仕方がない。

「今はまだなにもできないけど、いつか必ずこのご恩はお返しします。だからもう少しだけ、面倒を見てもらえないでしょうか」

千明の心のこもったお願いに、セイトラムはごくりと喉を鳴らした。
生粋の王族であるセイトラムに、このように真っ直ぐになにかを懇願してきた人間は今までいなかった。
王族である前に気性の荒い軍族、それも閣下と呼ばれるような地位になるべくしてなったセイトラムに、ここまで素直に心を曝すことを他の人間はしない。表面上性格を偽っていることも原因にある。
だからセイトラムは、どうしていいかも解らぬまま、こっくりと頷いてしまった。

本当は、お前に少しでも怪しいところがあれば国につれて帰って拷問にかけてやるつもりなのだとは、口が裂けても言えない。

「ありがとうございます!」

了承を受けて、千明は初めて年相応の笑顔を見せた。
ほっとしたような弾けるような、本当に嬉しそうに笑うので、セイトラムは今まで自分の中にあるとも思っていなかった良心が多少傷むのも仕方がないと考える。

とはいえ、怪しい存在に違いはない。
本人にそのつもりがなくとも、この魔法と科学で均衡を保っている危うい世界で危険と見なされれば、なにがなんでも処分しなくてはならないからだ。ただでさえ、誰が作ったか遺したかもはっきりしない古代遺産のゴーレムの出現によって以前より混乱が増えた。世界の守護者としての軍族シュバイツの人間として、危険分子を放置するわけにはいかないのだ。

たとえその危険分子が、善良で素直な者であっても。