――その頃、宰相見習いの青年の目の前で突如として皇子セイトラムが消えたことにより、中央大陸の大部分を占める軍国家シュハイツでは上に下への大騒動が起きていた。

「お前がついていながら、何故このような事態に陥った!」

耳をつんざくような怒声とともに、宰相見習いのハルトは、宰相補佐である兄アキトに殴られていた。
目の前でセイトラムが消えた次の瞬間にはハルトは宮殿内に駆け戻り、将軍、宰相はじめ、シュハイツ国軍王に伝令を飛ばした。
そうして急遽緊急会議が開かれた執務室で、難しい顔をした将軍と無表情の宰相、泰然自若とした軍王を前に、ハルトは報告をしている最中だったのだ。
その途中で伝令を聞いた兄アキトが、興奮のあまり乱入したという次第である。
通常なら王の御前でこの取り乱しようは懲罰ものだが、ことがことだけにそれを言及するものはいない。

「……もう一度確認するぞ、ハルト」

ぶるぶると拳を震わせるアキトが、感情を抑えた声で言った。

「閣下は本当に、召喚魔方陣で呼ばれたのか」

召喚魔方陣とは、その名の通り、召喚カードが使用される際に使われる魔方陣のことである。この陣が召喚カード側の人間と契約者側の人間の距離と時間をゼロにし、呼び出すことを可能にしているのである。

「間違いありません。それも、今まで見たこともないほどの巨大な魔方陣でした。通常ならば人一人を覆う程度のものが、閣下から少し離れて立っていた私まで飲み込むほどの大きさで、閣下は私を巻き込むまいと、咄嗟に突き飛ばして助けてくださったのです」

ハルトは殴られた頬を庇うこともせず、アキト同様、ぎりぎりと爪が食い込むのではないかというほど拳を握りこんだ。
主を守る側にある臣下が――戦闘に長けた主とはいえ――庇ってもらうなど、弁解もできない。
どうしてあのとき、セイトラムの腕を引き、魔方陣から引き剥がさなかったのか。

ハルトはそのことをただひたすら悔いていた。

「……召喚魔方陣。それがそもそもおかしい」

かすれているが、妙に心地いい声が緊迫した空気を撫で付けた。
見れば、キシイの巨木から切り出した執務机にどっかりと腰掛けている軍王が、ハルトを気遣うように見ている。

「アレは、仮にも王族だ。召喚カードとして、魔術研究塔に登録してもいない。それが何故、呼び出される事態に陥る?」

召喚カードシステムを考えれば、召喚カードとして未登録のセイトラムが呼び出されることなどまずありえない。
召喚術とは、召喚魔方陣のみを有効とするものであり、カードの使用以外で何者かが時間と距離を越えて呼び出されるなどあってはならないことだ。

「……まあ、あの閣下なら、面白そうだからと自ら身分を偽って召喚カードに登録するくらいのことはするでしょうな」

それまで黙っていた歴戦の戦士である将軍が、ぽつりと呟いた。
それに反論できる者は、残念ながらこの場にはひとりとしていない。

「ここ最近は、大人しく〝皇子〟として生活しているように見受けられましたが」

セイトラムの生来の気質を知る宰相シキも、無表情ながら口を出す。

「あれの猫かぶりは、幼少の頃からだからな」

あれの実の父親である軍王が面白そうに眼を細めたが、臣下達は一様に苦虫を噛んだような顔をした。
その猫かぶりに、この場にいる全員がどれほどの苦渋を飲まされてきたか。

「……私と接しているときも、表向きのセイトラム皇子でした」

ハルトが言いにくそうに口にする。
ことはことだが、もしかしたら張本人がことを引き起こした原因かもしれない恐れが出てきた。

「とりあえず、魔術研究塔に問い合わせてセイトラム閣下と思しきものが登録されていないか確認いたしましょう。それと同時に捜索隊も編成。準備が整い次第、研究塔の協力のもと、閣下の魔術の跡を辿ります。将軍は捜索隊の編成を、ハルトとアキトは研究塔へ連絡、許可が下り次第、召喚カードリストを徹底的に調べ上げなさい」

宰相シキがとりあえずの打開策を口にし、その場はお開きとなった。

「……閣下は無事だろうか」
「……むしろ閣下を呼び出した命知らずのほうが、危険なんじゃないか」

同時に部屋を出たアキトとハルトの力ない声は、漆黒の回廊に吸い込まれて消えた。




果たしてその頃、〝閣下を呼び出した命知らず〟である千明は、まさに命の危機に曝されていた。

目の前には兜を被った頭。そして仰向けに倒れた千明の腹には、ぴかぴかに磨き上げられた鎧男がとんでもない重量をもって容赦なく跨っている。
正直、今にも内臓が口の中から飛び出しそうだが、顔の真横にあの巨大ミミズをぶった切った剣が突き刺さっていることのほうが気になる。

「召喚カードを使用した人間には、召喚されたものへの説明義務がある。説明しろ」

と言われても、一体何を説明すればいいかわからない。

「……あの巨大ミミズに食べられそうになったので、助けを呼びました」

とりあえず、どうして彼がここに呼び出されたのかという理由を述べてみた。しかしそんなこと、わざわざ聞かなくてもわかりそうなものだが。

「んなこたわかってんだよ」

やっぱりわかっていたらしい。
ていうか。

「……性格、違いませんか」

先ほどから言葉を交わすたびに、千明は激しい違和感に襲われていた。
たった三言しか聞いていないが、最初現れたときは、このように粗暴な言葉遣いをするような人間には決して見えなかった。
ぽつりと呟かれただけの言葉には重みがあり、低く落ち着いた声は、ミミズに恐怖していた千明を無条件に安堵させた。
それなのに、数分と経たないうちにとんでもない俗物に成り下がってしまったような気がするのは気のせいだろうか。
いいや、気のせいじゃない。

「言葉遣いがちょっと丁寧かそうじゃないかの違いだ。気にすんな」

気になるから質問したのだが、相手には伝わらなかったらしい。

「で、お前、どうやって俺を召喚した?」

重そうな兜が首を傾げる。
しかしその眼は全く笑っておらず、千明を真上から見下していた。

「……か、カードで」

耳のすぐ傍で、剣がざり、と動くのを感じて、千明は慌てた。

「なんかレア中のレアとかいうカードで!」

耳がちょん切られる前に、男の目の前に握り締めた召喚カードを突き出した。
千明の血で茶色く変色してしまったそれは、それなりに硬い素材だったにも関わらず、ぐしゃぐしゃに皺が寄って眼も当てられない状態になっている。

「……おい、嘘つくならもっとマシな嘘吐けよ。こんなきったねえカードでこの俺を呼び出せるわけねえだろうが」

召喚カードの性能に汚いも綺麗も関係あるのかと問いたかったが、千明は兜の隙間から碧い双眸に睨みつけられてひっと喉を鳴らすしかできなかった。


碧い――。

そこで気付く。
この男の眼は碧かった。まさに男の背後に広がる、ぞっとするほど青い空のような色だ。
田舎とはいえないが都会ともいえないような場所で育った千明は、外国人と接する機会も少なかった。例外といえば英語を教えるALTくらいだったが、彼は黒人で、その眼は日本人より綺麗な黒目だった。だから目の前のこの俗物と化した男の眼が碧いことに気付き、思わず凝視してしまう。
人の眼というものは――、それも色がついた瞳というものは、なんて綺麗なものなのだろうか。絵の具で描くような色ではない。そこには球体が描く立体的な陰影と、長い金色の睫毛が映りこむ鏡のような空の色。
そんな美しい瞳の持ち主が。

「正直に話さないとその不可思議な服引っぺがして太陽の下に放り出す。ここの陽光に皮膚が焼かれると痛いなんてもんじゃねえぞ。表皮がじりじり焼かれて真っ赤になったと思ったら皮膚が寄れてきてそのうち水泡ができてそれが潰れる、そうなると今は滑らかなその肌がぼっこぼこのぐちゃぐちゃになる。まだ若い美空で、それは酷だよなあ」

これだなんて残念すぎる。


「……私は、本当のことしか言ってない」

男を睨みつけながら毅然と言ってはみたが、喉が限界だった。
言った途端に咳き込んで、そのまま止まらなくなる。

「おいおい、水持ってねえのか」

水どころか食料すら持っていない。あるのは血塗れた召喚カードだけ。
言い返す余裕もなく、千明は噎せ続けた。
乾ききった喉が潤う暇もなく、がらがらと乾いた粘膜が擦れあう。唾液すらまともに出てこないのだから、さっきまでよく喋っていられたと自分でも驚くほど水分が足りていなかった。

そんな千明の頭上で、舌打ちが響く。
好きで咳き込んでいるわけでもないのに酷い、と千明がぼんやりする頭で考えたときだった。

「っぅぐ」

顎をものすごい力で掴まれたと思ったら、口の中にひんやりと冷たく硬いものが突っ込まれた。
咳き込みすぎて震える千明の舌をそれがそろりと撫でる。金属の味がした。
朦朧とする視界で、それが甲冑を纏った指先だと知る。

なにすんだこの変態――と頭の中で千明が詰る前に、口の中に清涼な水が溢れた。
どうやら千明の舌に置かれた指先から、水が生み出されているようだった。魔法かなにか知らないが、なんてありがたい。
千明はそれを夢中で貪った。たまに激しく咳き込み、焦るな、と男に宥められながら、差し出された腕ごと旨に抱え込むように男の指を吸う。こくこくと喉が上下して、何度か休憩を挟みながらやっと人心地ついたところだった。

涎とも水ともつかないものを口端から垂らす千明を、男は首を傾げながら見下ろしてこともなげに言った。

「勃った」

はい?

千明が問いかける前に、男は仰向けの千明に覆いかぶさる。
え、と思ったときには立てた千明の膝に、男の甲冑に覆われた股間が押し付けられていた。

「っぎゃあああああああああああああ」

たっぷりと潤った喉は容赦なく悲鳴を上げ、千明の膝が甲冑の股間を直撃したのは同時だった。
とはいえ、千明の膝が痛いだけだった。