魔力がないことをぼんやり悲しがっていた千明をよそに、セトははっとして勢い良く顔を上げた。
上げたセトの表情は兜で見えないが、なんとなく深刻そうな顔をしているような気がする。
「魔力がないってどのくらいだ?」
そしてその声は、深刻そのものだった。

――どのくらい?

「いや、だから、ちょっともないよ」
魔力なんてものを感じたことなど、この十七年間一度もない。ない、イコールゼロ、だ。
「まずい」
セトは兜の中で舌打ちすると、がしゃりと金属音を立てて立ち上がった。
「予定変更だ。今すぐ発つぞ」
何故、と聞き返す暇もなかった。セトに手を掴まれ強引に立ち上がらされると、そのまま引きずるようにして部屋の外へ出された。
「なっ、なん、なんで?」
金属に包まれた指が痛い。
足早に走り去るセトに引っ張られるように外に出た。
長いマントを踏みつけそうになり、慌ててそれを脇でまとめて抱え上げる。
と、セトが民宿の入り口を少し行ったところで立ち止まった。あまりに急に立ち止まったので、千明の鼻がセトの硬い脇腹に激突する。
「セト、なんで急に――」
鼻を赤くした千明の耳に、甲高い悲鳴が届いた。
女性の声だ。それに続き、子供や男性の怒号も聞こえる。
「遅かったか」
頭上で舌打ちが響いた。
千明は、目の前の光景に言葉を失った。


「な、なん、な…………!」
千明はなにか喋ろうとして、あえなく失敗した。
周囲では悲鳴や怒声が溢れ、砂漠のオアシスで平和に暮らしていた人々がパニックに陥っている。
それもそのはずだ――町の中心に位置していた湖から、巨大な熊が飛び出していた。
その大きさを無視すれば、違うことなく熊である。その巨体は湖の半分を占めており、一体今までどこに隠れていたんだと声を大にして問いたい。
銀色の美しい毛並みをぺっとりと水に濡らし、その眼は満月のように輝いている。千明がでっかいくまだ、と理解したときには、鋭い爪の生えた大きな手が、陸地に上がろうと今まさに岸にかけられたところだった。
「グライム」
セトがぽつりと呟いた。
どうやらあの熊は、グライムというらしい。
それは名前か?種族名か?
気にはなったが、とても訊ける雰囲気じゃなかった。

人々が逃げ惑う中、何人かが懐から召喚カードを取り出してなにか呪文を唱えている。
ささやかな光があちこちで輝き、何もなかった空間からまるで魔法のように人が現れている。ちがった、魔法だった。
(……召喚カード)
唯一覚えのあるそれに、思わず眼がいく。
「セト、あれ」
問おうとして、肩をぐっと引き寄せられた。硬い甲冑の感触が痛い。

「逃げるぞ」

え。

またも問う暇はなかった。
乱暴に体を方向転換されたと思ったら、そのまま壁の出口へと向かって走り出す。甲冑の大男は逃げ惑う人々を次々に追い抜くと、あっという間に先頭に踊り出た。
「セッ、セト、た、闘わないの?」
その甲冑にほぼぶら下げられているような形で走っている千明は、舌を噛まないようにしてセトを見上げた。
すぐ後ろで、地響きのような音が迫ってくる――どう考えてもあの熊が追いかけてきているとしか思えない。それと重なるように、人々の悲鳴が響き渡っている。
「あれはお前しか喰わない。俺たちがあいつのテリトリーから抜ければ、また巣穴に戻るさ」
セトは全速力で走っているとは思えないほど落ち着いた口調でそう答えた。
「あ、じゃ、じゃあ、他の人達は…………え?」
あの熊が千明一人を目指しているならば、他が喰われる心配はないのだろうと安堵しかけて、恐ろしいことに気付く。
自分は今、とんでもないことを言われなかったか。
「ああ、踏み潰される心配はあるがな。他に犠牲者を出したくなかったら、とにかく走れ」
いや、それより何故自分だけが狙われているのか――そこが知りたい。
とは、もう口にできなかった。
セトの太い腕が千明の脇を抱え上げて、とうとう俵のように持ち上げたかと思えば、更に走るスピードを上げたからだ。
目の前には見慣れてしまった赤い砂漠と、怒涛の勢いで千明達を追ってくるグライムが見える。
鋭い牙を剥き出しにして、白濁の涎を撒き散らしているさまはぞっとする。赤い砂漠に、白い巨体が鮮明に映えて妙に迫力があった。
途中何度か、ラクダとカバの合体にサイの角が生えた生物を連れた旅人らしき人間とすれ違ったが、皆が皆、すれ違いざま、千明達の背後に迫るグライムを見て悲鳴を上げていった。気持ちはよく解る。

「あと少しだ。あと少しで抜ける」
さすがのセトも息切れし始めている。
「まっ、セ、セト、自分で走るよ」
あのグライムという熊が千明しか狙わないというのなら、セトは完全なとばっちりで全力疾走していることになる。しかも、千明《にもつ》を抱えて。
「やめとけ。お前の短足じゃすぐに追いつかれて喰われる」
それもその通りである。
短足呼ばわりは腹は立つが、こちらの世界ではどう考えても千明は短足の部類に入るし、そんな短いスパンで全力疾走したところで追いつかれるのは目に見えている。
千明はとにかく、セトの邪魔にならないよう大人しいお荷物になることにした。


「ぜっ、ぜぇっ、ぜぇっ」
あれからどれくらい走ったのか――。
セトはもう少しでテリトリーを抜けると言ったが、千明には随分な距離を走った気がする。
しかしあるとき、砂漠に小さな穴がぽつぽつと目立ち始めた。それは蛇の胴体ほどの幅の穴で、虫か小動物の巣穴だろうかと千明はセトに抱えられたまま辺りを見渡す。
その穴は見渡す限りに広がっていたが、千明のすぐ目の前を走っていたグレアムがある地点できゅっと前足に力を入れて急ブレーキをかけた。
巨体が急ブレーキをかけたせいで赤い砂煙が起きる。
グレアムが立ち止まったことで、セトも立ち止まった。
ぜえ、ぜえと大きな鎧が憔悴して息切れしている様は迫力があった。
申し訳なさ過ぎて困る。
やがて砂漠に下ろされた千明は、セトの影からグレアムを観察した。
グレアムはぐるぐると喉で唸り声を上げているが、立ち止まったそのラインからこちらに来る様子はない。
「あそこがテリトリーの終わり?」
セトに問うと、こくりと頷かれた。息がまだ整わないらしい。

グレアムは満月の瞳でじっと千明を見ていた。
そこにまるで知性のようなものを感じて、千明は薄ら寒くなった。
動物の本能とは違う、はっきりとした意思をもって千明を喰らおうとしていたのだと言われた気がした。

そうしてグレアムはやがて諦めたように鼻を鳴らすと、踵を返してきた道をのそりのそりと戻っていった。