病院を出て、相変わらず蒸し暑い街なかを私たちは再び歩く。
 基本的に、亮くんの方から私に話しかけることはない。
 だから私が無言でいると、ずっと無言のまま歩き続けることになる。
 でも、今日は違った。

「ねぇ」

 電車を降り、亮くんの地元に戻ったタイミングで、珍しく亮くんの方から声をかけてきた。

「どうしたの?」

「どうして、漫画家を諦めたの?」

 道を歩く私の足が停止する。それに気付いた亮くんもすぐに足を止めた。
 ……正直、意外だった。
 亮くんの方から話しかけてくることもだけど、亮くんが私のことについて尋ねてくることが意外だった。
 本音を言うと、あまりそのことについて語りたくはない。
 さっきは亮くんのやる気を出すために諦めたと語ったけれど、何故諦めたとか、そういう具体的な部分は極力誤魔化してきた。
 だから、こうして改めて訊かれるとどう答えていいものかと悩んでしまう。
 話したくはない。でも、亮くんが初めて私のことに興味を持ってくれたような気がして、押し黙るつもりにもなれない。
 私に訊かれた時の彩月や亮くんも、もしかしたらこんな気持ちだったのかもしれない。言うか言うまいかを天秤にかけた結果、言わない方向に傾いたというだけで。

「バカにしない?」

「しないよ。絶対に」

「そっか」

 亮くんは真っすぐ、一点の曇りもない瞳でじっと見つめてくる。
 私が確認するまでもなく、バカにするつもりなんて微塵もない真面目な表情だった。
 意味のないことを確認してしまったと自虐的な笑いが出てしまう。

「道の真ん中で話すのもあれだからさ、近くの公園とかで話さない?」

「それならすぐに近くにいい場所がある」

 私は亮くんに連れられ、その公園を訪れた。
 別にわざわざ公園に来なくても亮くんの家で話せばいいのだけど、何となく開放的な場所で話をしたかった。
 そういう意味ではこの公園はまさに私の望み通りだった。
 このあたりでは一番海抜の高い土地に作られた公園だったため、公園から街中を見渡すことができる。
 公園自体の広さはそこまででもなく、バスケコート二面くらいの広さ。でも見晴らしがいいおかげで窮屈な印象は全くない。
 滑り台以外の遊具はなく、そのせいか人も寄り付かない。話をするにはちょうどいい場所だと思う。

「ここ、昔初めてお父さんに連れてきてもらった公園なんだ。気に入ってるから、特に理由がない時でもよく来たりする」

 入口から一番遠い場所、フェンスのすぐ際にあるベンチに腰掛けながら亮くんが言う。

「そうなんだ。確かにいい場所だね」

 そう言って、私も亮くんの隣に腰掛ける。
 本当はもっと亮くんの話を聴きたかったけれど、今は私が話す番だ。そのためにここに移動してきたのだから。
 やはり、話すのは怖い。
 軽蔑されるかもしれない、そんな思いがどうしても拭いきれない。
 けれど、話そうと思う。
 この子は、決してバカにしないと言ってくれた。だから勇気を持って話してみよう。
 私は真っ青な空を見上げて、話し始める。

「簡単に言うとね、身の程を思い知っちゃったの」

 そもそも、私が漫画家を目指そうと思ったきっかけは凄く単純だった。
 私はそのきっかけとなる言葉を、記憶の引き出しから取り出した。

「――こころちゃんは絵が上手だね」

 それは保育園で絵を描いていた時に、保育士さんが私に言った何気ない一言。
 今考えるとただのお世辞だとわかるのだけど、当時の私はそれを本気にしてしまった。
 自分には絵の才能がある。愚かにもそう思ってしまった。
 当時の私は絵を描く仕事と言えば漫画家だと思っていたものだから、自然に漫画家を目指すようになる。
 祖母や祖父は、漫画家は食べていけないからやめなさいと言っていたのだけど、お父さんとお母さんは私の味方をしてくれた。
 だから私は安心してその道を歩み続けた。
 保育園を卒業して、小学校に入学し、来る日も来る日も絵を描き続けた。
 お父さんもお母さんも、私が絵を描くと褒めてくれた。上手だねと言って頭を撫でてくれた。それが嬉しくて、私はますます絵を描くようになった。
 小学校三年生になる頃にはそれなりに上達もして、クラスで遠足のしおりを作る時には表紙のイラストを任されたりもした。
 友達からも将来は絶対漫画家になれるよ! などと言われていたから、きっと天狗になっていたんだと思う。
 自分は天才。
 自分は特別。
 きっと漫画家になれる。
 そう思っていたから、現実を知ったその日、私はあっさり漫画家の夢を放り捨てた。
 なんてことはない、よくある話だ。
 進級して新しいクラスメイトたちと自己紹介をしたときに、クラスメイトの一人がこう言った。

「趣味は絵を描くことです」

 あ、同じ趣味だ。そう思った。
 私の周りにも絵を描いているお友達は沢山いた。でも私はその誰よりも上手だったから、その子もたいしたことないのだろうと思っていた。
 だって私は天才だから。アドバイスでもしてあげよう。
 そんなことを思いながら、私はその子に絵を見せてもらった。
 そして、衝撃を受けた。
 自分なんて足元にも及ばないほど、圧倒的な力量。
 聞けば、その子が絵を描き始めたのは小学二年生からだと言う。
 保育園の頃から毎日描いていた私よりも後に始めた女の子が、先に始めた私より圧倒的に上手い。これほど悔しいことは他にない。
 天才だからアドバイスをしてやろう。そんなことを考えていた自分が酷く滑稽に思えた。
 そして私は思い知った。自分なんて所詮ちょっと絵が上手いだけの凡人なのだと。
 それからは、絵を描くのが嫌いになった。
 絵を描くたびに、あの子のイラストが頭をよぎるからだ。
 自分が描いている絵など、所詮子供が描いた低レベルな落書きだと言われているような気がして、何度も声をあげて泣いた。
 だから、私は漫画家という夢を手放した。自分でも驚くほどあっけなく。
 それからはずっと無気力だった。
 夢もない。目標もない。
 空っぽの自分に嫌気がさしても、どうすることもできない。
 だから私は今日までずっと、逃げ続けてきた。進路さえ決めずに。
 全ては膨れ上がった自尊心が招いた自業自得。
 ただ調子に乗って身の程知っただけの、よくある話。
 本当に、くだらない。

「ざっと話すとこんな感じかな」

 私が話し終えるまでの間、亮くんはずっと静かに聴いてくれていた。
 でも、それが怖かった。
 亮くんが本気漫画家を目指していることは私も知っている。
 だからこそ怖い。
 本気で目指している人間からすれば、私みたいに中途半端に手を出してすぐに挫折する人間なんて、きっと目障りだろうから。

「ごめんね、バカみたいだよね私。高校三年生にもなってみっともない」

 だから、自虐的に笑って亮くんの顔色を伺いながら話すことしかできなかった。
 軽蔑される前に、自分で自分を貶す。そうすれば、きついことを言われたとしても心を保てるような気がするから。
 逃げ続けて後悔して、変わりたいと願っている今この瞬間でも、私は弱い自分を守るために醜く足掻いているのだ。
 そんな自分を意識するたび、私は自己嫌悪と罪悪感に苛まれる。
 けれど、

「全然、みっともなくなんかない」

 亮くんが放った一言は、そんな罪悪感を一瞬で消し飛ばしてくれた。

「悩むのも、空っぽな自分に嫌気がさすのも、悪いことじゃない……と思う」

 亮くんは慎重に言葉を選んでいるようで、少しばかり歯切れが悪い。
 いつもは思ったことを思ったまま口にする亮くんが、あろうことか私に気を遣ってくれているらしい。
 嬉しい反面、申し訳なくなる。こんな私のために気を遣うなんて、と。
 私が黙っていると、亮くんは難しい顔でしばし考えた後、再び言葉を紡ぎだす。

「だって、罪悪感があるってことは変わりたいって思っているってことだから、全部諦めて開き直るよりよっぽどいいよ」

「亮くん……」

「それに、こんなことを言ったら失礼かもしれないけど、もし君が反面教師になってくれなかったらきっと僕も漫画家の夢を放り出していたと思う……。だから、感謝してる」

 ……なんだろう、この気持ち。凄く、胸が温かい。
 夢を諦めてからずっと空っぽだった心の中が満たされていくような、そんな感覚。
 今までだって、夢がないのが普通だとか、悪いことじゃないとか、色んな人からそんなことを言われてきた。
 でも、気休めにすらならなかった。大きく空いた穴を埋めるには至らなかった。
 亮くんが言ってくれた言葉だって、今までかけられた言葉と大差はない。
 なのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
 いや、本当は自分でもわかっている。
 私はずっと、認められたかったのだ。過去の自分と同じ夢を見るこの少年に。
 他の誰かと同じような言葉でも、他でもない亮くんに言われたからこそ、私は嬉しいのだ。
 同じ夢を持つ亮くんだからこそ、響く言葉なのだと思う。
 漫画家を目指したのも、挫折したのも、全部無駄ではない。亮くんに、そして過去の自分自身にそう言われているような気がして、満たされなかった心の渇きが満たされていく。
 気が付けば、私は涙を流していた。

「な、なんで泣くの」

「ごめんね、嬉しくって」

 嬉し泣きなんて、ドラマや映画の世界だけかと思っていた。
 この子を救うつもりで来たのに、救われたのは私の方だなんておかしな話だ。

「そろそろ帰ろっか。早くしないと締め切りに間に合わなくなっちゃうよ」

「あ、うん」

 私は涙を拭い、満面の笑みとともに一歩、足を踏み出す。
 まだ目が潤んでいるけれど、悪い気はしない。
 さっきからずっと、私の心は満たされているのだから。
 隣を歩く亮くんの顔を横目で見ながら、私は手を胸にあてる。
 亮くんと言葉を交わすたびに、その顔を見るたびに、温かい気持ちが増していく。
 今まで感じたこともない気持ち。けれど、何故だか私にはこの気持ちの正体がはっきりと理解できる。
 ああ、私は亮くんを好きになってしまったらしい。