「……啓一郎さんですか?」

突然思い至って、声を掛けてみた。
向こう側の物音もひとり分。
もし違ったら、鉢合わせないように逃げてしまえばいい。
こちらを伺うような気配が続いていて、しばらくしずかだったけれど、

「小花?」

と躊躇うような返事があった。

「よかった! 啓一郎さんで。おひとりですか?」

「ひとりだけど」

「こっちもわたしひとりなんです。それで、なんだか怖くって、諦めて帰ろうかと思ってたんです」

暗くて広い浴室にひとりという恐怖感と、顔が見えない環境のせいで、さっきまであった溝を忘れて話しかけていた。
壁の向こうに啓一郎さんがいると思うとずっと安心できて、わたしはふたたび身体を洗い始めた。

「啓一郎さん」

「なに?」

「何か話すとか、音出してください。そうじゃないとさみしい」

カコンと洗面器を置く音と、お湯を出す音がする。
そしてわざと大きくしたように荒く身体を擦る音が続いた。

「そんなに強くこすったら皮膚ズル剥けませんか?」

「小花が音出せって言ったんだろ」

「話すとか歌うとかすればいいのに」

「歌うよりならズル剥けた方がいい」

バシャン。
カコン。
シャーーーッ!

目を閉じても少し大袈裟なその音はちゃんと聞こえる。

「わたし終わったんですけど、終わりました?」

「まだもう少し」

「じゃあ内湯に入って待ってますから、終わったら教えてください。露天風呂に行きたいです」

返事の代わりに、カコンと洗面器が鳴った。