千一夜物語-森羅万象、あなたに捧ぐ物語-

神社内に入ると埃っぽく、咳き込んだ神羅の口元に手拭いを巻いてやった黎は、懐かしげにきょろりと見回した。


「何も変わっていないな。お前の死後手付かずといったところか」


「私が秘密裏に桂を産んで死んだとの報を流してからこっち手をつけなかったのでしょう。ここには生前私が祀っていた神が御座す場ですから壊せなかったのかも」


「俺たち妖が存在するのだから神仏も存在するだろうな。…もしかして‟魂の座”を管理していたあの連中も…いや、なんでもない」


じいっと見つめてきた神羅の肩を抱いて祭壇の前に座った黎は、懐から夜叉の仮面を取り出してかぽっと被った。

懐かしさに神羅が頬を緩めると、未だ曇りのないご神体の鏡をふたりで見つめてしばらく黙っていた。


「黎…澪さんのことはもういいのですか?今度は…私が独り占めをしていいの?」


「お前の死後澪を幸せにしなければとありとあらゆる努力をした。…俺は幸せだったし、澪も幸せだと思ってくれたから、‟魂の座”を望んだんだ。だからお前が気に病むことは何ひとつない。…お前はまたそうやって遠慮して俺を拒む気か?」


黎の目に苛烈な光が宿ると、神羅は臆して黎の袖をきゅっと握った。


「違うわ、拒んだりしない。私たちは…お主を心から愛していたから。だけど私は人だった。お主より先に死ぬことが定められていたわ。だから…譲らざるを得なかったのよ」


「俺は!お前が先立つ運命にあったから限りある時をお前に費やしたいと思って…!…いや、前世の話はもうよそう。とにかく俺はお前だけを愛するために転生したんだ。お前は…違うのか?」


黎の優美な目元に哀愁の色が浮かぶと、神羅は焦って口元を覆っていた手拭いを外して黎に抱き着いた。


「誤解しないで!私だってお主を独り占めしたくて転生したのだから…分かって、黎」


ふたりで桂のことを思った。

ここで愛し合って命を芽生えさせた場所でふたり、桂を思った。


「あの子…今頃どうしているでしょう」


「さあ…俺たちの間にまた産まれて来るといいな」


ふたりでそう願い、寄り添った。