【akari side】



秋なのに、やけに蒸し暑い日だった。

移動教室の合間の休み時間、教室の後ろのドアを締め終わり、もう片方のドアを閉めようとした時。


「中村さん、ちょっと待って」


田中君は廊下から教室に飛び込むような勢いで走ってきた。思わず佐倉咲の言葉がよぎった。けれど、田中君に深く関わる必要は私にはない。触らぬ神に祟りなしだ。


忘れ物をしたのか、田中君は鞄から教科書を取り出していた。


彼が出るまでの時間、私はドアから何気なく田中君の様子を見ていた。


田中君が教科書を出して教室から出ようとしかけた。しかし、田中君は何かを思い出したように立ち止まった。


「俺鍵閉めとくから、先に行ってて」


爽やかな笑顔でお願いされたけれど、授業が始まるまであと5分。教室を移動する時間は十分にあった。


「大丈夫、待ってても間に合うよ」


何も考えずに私は言った。


すると田中君は「そっか」と言いながらも何かを諦めたような表情をしているように見えた気がした。そして、田中君はもう一度自分の机へもどっていった。


教室の扉の枠にもたれて田中君を待っていると、机から何かが落ちる音がして、反射的に音のする方を見た。


すると、丁度田中君が持った数Ⅲのワークの隙間から、ひらひらと札状の紙が数枚滑り落ちていた。

その刹那、私は何気なく彼を見ていたことを後悔した。先に教室に行っていればよかったのに。なぜ田中君か出るのを待ってしまったんだろう。


田中君はハッとした顔で私がソレを見ていたかを確認した。

その表情で、彼が知られてはいけないことをしているのだと悟った。


逃げ場のない空気に、湿気の多い風が2人の間を通り過ぎる。


「中村さん」

名前を呼ばれた私は顔を上げ、田中君がこれから何を言うのか瞬時に想像した。きっと落ちた数枚の一万円札について話すのだろう。


「中村さんの行ってる塾って金曜日だよね」
「へ?」

しかし、田中君は落とした一万円札を拾い上げると、何事もなかったかのように私がいるドアの方へと向かってきた。

不意を突かれた私は田中君から失くしてしまった塾の手帳を人づてに手渡されたことを瞬時に思い出し、それと同時に田中君の記憶力の良さにも驚いた。


「どうして?」


私が聞いても、彼はただ口元に笑みを浮かべた。
田中君はまじまじと私を見て考えるような表情で、もう一度言った。


「中村さんって兄弟いる?」
「居ないです。けど」

何事もなかったかのように田中君は近づいてくる。口元に固まったような笑みを浮かべていて、近く田中君の眼鏡の奥の瞳は笑っていない。

急に怖くなって、私は無意識に後づさりをしていた。


「姉妹も?」
「居ないよ」

「閉めないの?」
「へ?」

「もう誰も来ないよ?俺も出るし。鍵閉めたいでしょ?」
「う、うん」

そう言って田中君が指さした時計は授業開始3分前を知らせていた。

急いで鍵を閉め、移動しようとする私に、田中君はもう一度聞いた。


「なわけないよな」
「へ?」


「ドッペルゲンガーなわけないよな」
「どういうこと?」


「ううん。何でもない」


そう言ったまま、田中君は私を置いて廊下を走っていった。


取り残された私は急いで彼の後ろを追いかけた。だけど、頭の中は田中君が残した謎でいっぱいだった。

ヒラヒラと落ちていく1万円札、田中君のハッとした表情。それに兄弟とか、姉妹とか…ドッペルゲンガー?とか。


どこかで私にそっくりな人でも見たのだろうか?それに、どうして私の塾の曜日の話をするのだろう。


一体田中君は何のことを言っていたんだろうと首を傾げた時、1つの疑惑が浮かび心臓の奥底がヒヤリと冷たくなった。


田中君に私の秘密を知られている?


いや、そんなはずが無い。誰にも知られないように気を使っている。それに、例え田中君がそれを知ったところで何になる。


私は塾帰りに少し楽しんでるだけだ。


別に何も悪いことはしていない。
例え噂が流れたところで、元々友達はいないし、成績さえ今の状態を保っていたら先生も何も言わない。親にさえバレなければ何も問題ない。


だけど、絶対にこれ以上は田中君に関わっちゃダメだ。噂は利用するだけで十分。だから本当のことなんて知る必要もない。


チャイムが鳴り響く蒸し暑い廊下で、
私は1人立っていた。

教室に急ぐことを忘れた私の頭の中は、
くるくると疑惑が駆け巡っていた。