一人きりのはずの教室で、カタンと音が鳴る。机に突っ伏したまま音の発生源であるドアの方に目線を向けると、葵だった。


 最近は葵がずっと側にいる。それは、単純に嬉しかった。顔は上げずに、素直になれない俺はぶっきらぼうに話しかける。



「……まだ帰ってなかったのかよ」



 葵は近づいてきて、俺の机の前で屈むと、目線だけをひょっこり覗かせた。無自覚なのだろうが上目遣いで、なんともいえない気持ちになる。それに罪悪感が芽生え、視線を逸らした。


 嬉しいけど、嬉しくなくて。切なくて。俺らしくもない感情。本当はもっと、空っぽで、何も考えずに葵と話したいのに。



「和久津こそ、なんでいるでござる?」


「俺は日直だからいいんだよ」


「仕事は全部終わってるのに?」



 葵がくすりと笑う。嬉しい。葵が笑うと嬉しい。たとえ呆れた笑顔でも。……でもこれは、決して『そういうもの』ではないと、自覚している。



 ――――俺は夏休み、大和に全てを話していた。


 朝霧に好意を持っていたこと、だから大和を素直に応援できずにいたこと。ファミレスに誘って勇気を出してみれば、大和は「そっか」と一言だけ言っていつも通りに接してくれた。


 でも、「俺も朝霧さんのことが好きなんだ」とも言っていた。まっすぐと力強い目で、まるで宣戦布告だ。


 それはさながら、「朝霧さんは渡さないよ?」とでも言いたげな……いや、本当にそういう意味だったのだろう。


 俺は決して、大和から朝霧を取るつもりはない。もとより分かり切っていたことだ、今更何か言う気にもなれない。


 ……だからといって、はいじゃあ葵のところに行こう、というわけにもいかない。


 葵はきっと、俺のことを好きになってくれるだろう。そういうことをしたいと言ったら、受け入れてくれる。葵はずっと、側にいてくれる。俺の言うことを聞いてくれる。


 和久津、と呼び方を戻したのも、関係を変えても構わないという意思表示だ。



「……帰らないんでござるか?」


「おまえが帰ったら、帰る」


「えっ、一緒に帰ってくれないんでござるか」



 なんだろうか、この関係は。


 友達……だったはずだ。少なくとも今までは。今は、そんな風に言えるわけがない。



「仕方ねぇな……」



 俺は席を立ち上がった。葵が嬉しそうに八重歯を見せる。その表情に、またじわじわと罪悪感が蝕んだ。


 やめろよ、その笑顔。疲れるんだ。俺は、こんなにも汚い。綺麗な葵が、眩しすぎる。


 ――なんて。はぁ、こういうことを考えるのでさえ、面倒だな。何を迷う必要がある。葵は友達、それでいいじゃねぇか。



「だから佐々木さん! まだここにゴミが残ってますってば!」


「な、なによ! いちいち細かすぎるんだよ土屋は! ……ちっ、やればいいんでしょやれば!」



 教室を施錠しようと廊下に出ると、そんな女子の言い合いが聞こえた。


 一人ははどこか聞き覚えのある声。俺の知っている話し方じゃなくて、一瞬疑った。でも、それを確認する意味なんてきっとない……。



「さぁ、行くでござる~!」



 一方、葵の声は弾んでいて、今にもスキップし出しそうだった。ちらちらと声の在処である教室を見ながら、隠しきれずにこぼれた笑みで、なんの曲でもない鼻歌を歌いだしている。


 葵が嬉しそうだと、俺も嬉しい。


 でも……やはり『そういうもの』ではないのだ。


 そう――――俺達は、友達だ。