『俺だ』


『僕です』


『冗談はいい。虎太郎、小松崎先生のところに行ったら行ったと、俺にも知らせろ』


『えっ、籐矢さんも大学に行ったんですか。わぁ……先生、機嫌が悪かったでしょう』


『あぁ、いかにも不機嫌な顔で、散々嫌味を言われた。連日やって来てなんのつもりだってね。

警察関係者に周囲をかぎまわられて、変な噂が立つのは困るそうだ。

俺と琥太郎が、小松原先生の指導を受けられなくなった腹いせかとまで言われたぞ』


『ははっ、そうでしょう。教授になれるかなれないかの瀬戸際ですから。

それにしても、腹いせってのはひどいな。僕も籐矢さんも、小松崎先生に嫌われましたね』



学生の頃、籐矢と虎太郎は小松崎に師事していた。

籐矢も虎太郎も将来を有望視されながら、「音楽への興味が無くなった」 という理由で小松崎のもとを去った。

小松崎にしてみれば不本意な理由で教え子を失い、教え方に問題があったのかとのわだかまりを残したため、先のような発言をもたらしたのだ。
 


『教授の枠は限りがあるからなぁ。保身にも走るだろうよ。

刑事や捜査官が周囲をうろうろしたら、あらぬ噂を立てられる。先生も困るだろう』


『非協力的だったでしょう。あの先生、何か知ってると思ったんだけどな』


『教授になったら話してくれるかもしれない。それまで、先生に迷惑がかからないようにしろ』


『そうですね。でも、小松崎先生、教授になるのは無理でしょう。人格的に問題ありですからね』



籐矢も琥太郎も、音楽そのものが嫌いになってやめたわけではない。

小松崎の決めつけるような物言いと融通の利かなさ、それから、損得勘定のこだわりに嫌気がさしたというのが本当の理由だった。

指導者を変える選択肢もあったが、ほかの指導者と新たに信頼関係を築く情熱もなかった。

小松崎との関係で大人の狡猾さを学んだと、籐矢は思っている。



『フッ……虎太郎、おまえも口が悪いな』


『籐矢さんほどじゃありませんよ。大学にはほかにも知り合いがいますから、そっちをあたります』


『井坂という助手に会った。虎太郎、知ってるだろう?』


『井坂さんに会えましたか。それで、聞いてくれましたか?』


『画像の顔は記憶にないそうだ。何かあれば協力すると言っていたが』


『わかりました。井坂さんには、僕からも連絡します』


『うん、あの人なら話が通じるだろう』


『そうですね……籐矢さん、いまでもジャズを弾いてますか』


『そんな暇はないよ』



琥太郎の不意の問いかけに素っ気なく返事をして電話を終えた。

籐矢の頭に、思い出したくない過去がよみがえっていた。

クラシック以外は認めないと言って、籐矢が持っていたジャズの楽譜を取り上げた師は、大学の准教授になっても昔のままだった。

相手を認めず、凝り固まった考えを押し通そうとする小松崎には、もう会うことはないだろう。

会ったところで会話が進むとは思えない。

どこかからモーツァルトを奏でる音が聞こえてきて、籐矢は立ち止まり耳を澄ませた。

ふと、穏やかな井坂の顔が浮かんだ。

彼になら、また会ってもいいと籐矢は思った。