「みずほ……みずほ……水穂」



香坂水穂は、低く響く声にビクンと身を震わせて目を覚ました。



「アンタなぁ、よくもそんなに安心した顔で寝ていられるな」


「すみません……」




連日の深夜帰宅で体が睡眠を欲していたとはいえ、上司である神崎の快適な運転に、ついウトウトしてしまった自分を恥じた。



「ここから運転を代われ」


「私の運転でいいんですか? 荒っぽいですよ」


「知ってるよ」



こんなところが憎たらしいと思いながら、水穂は言われるままに車の運転を代わった。

神崎に指示されたとおり、曲がりくねった公道をかなりのスピードで走り抜ける。

運転免許取得後、運転のスリルを味わいたくて毎日走り回っていた十代の終わりは、水穂にとって辛いときでもあった。

何もかもが嫌だった。

家の中では優秀な弟と比べられ、外では香坂家の娘として多大な評価を求められる。

大学進学を機に一人暮らしをはじめたのも、家のしがらみから抜け出すためだった。

自由を満喫するだけでは飽き足らず、真夜中のドライブに出かけては、カーブの多い峠の道を走りスリルを味わった。

車を運転しているときは何もかも忘れられた。

ときにはレースまがいの挑戦にも挑み、命の危険を感じたこともあったが、車好きな仲間にめぐり合えたのもこの頃だった。


法に触れるスレスレの運転行為を繰り返し、時には取り締まりの警官に遭遇したりもしたが、持ち前の度胸で堂々と免許を見せながら 「ご苦労様です」 と警官へにっこり笑ってやり過ごす荒業も身につけた。

そんな水穂を仲間は 「さすが、すごい」 と褒め、褒められるとまんざらでもなかった。

彼らへ警察官の娘であることは伏せていたため、賞賛の声は水穂個人へ向けられたものであり、認められたことで自信がついた。

それが勘違いの自信だったと気づくまで、水穂は自分を過大評価していた。


警察の上層部にいる父親が、娘のやりたい放題の素行を知らぬわけがない。

免許証を確認した警官が、父へ報告したかもしれないとなどとは思いもしなかったのだから、その頃の水穂は、まったくもって世間知らずの子どもだった。

そう考えるようになったのは、水穂自身が父と同じ職に就いてからだ。

だいたい、学生の身分で運転免許取得後すぐに車を買い与えられるなど、普通の家庭環境ではない。

それなのに 「水穂のおうちはお金持ちなのね」 と友人に言われて、「うちの親は弟ばっかり可愛がるから、車は私への罪滅ぼしなのよ」 とうそぶいていたのだから、どうしようもなく甘ったれた娘だった。

その甘さに気づかされたのは、母親の言葉だった。



「水穂ちゃん、あなたはわかっていると思うけど、運転に慣れは禁物よ。走っている限りドライバーには責任があるの。 

自分だけの注意では事故は防げないのよ。安全運転を忘れないでね」



テクニックを見せ付けるように、家のガレージにスピードを緩めず車を入れた水穂へ、母は危ない行為を注意するでもなく、ドライバーの責任を説いた。

久しぶりに帰宅した水穂の肩を抱きながら、気の緩みが事故を引き起こすのだと、自分が交通課の警察官だった頃担当した事故のケースを話す様子に押し付けがましさはなく、水穂は母親の話に素直に耳を傾けた。

母親は実に合理的な考えの持ち主で、父親よりも決断力に優れているのではないかと水穂は思っていた。

そんな母が、娘の機嫌を取るために車を買い与えたとは思えず、なぜ車を買ってくれたのかと聞くと……


「車は電車より時間の無駄がないわ。時間は効率よく使わなくちゃ。 

車の運転は危ない、心配だという人もいるけれど、水穂ちゃんなら大丈夫だって、私は信じているの」



そう言って微笑んだ母親の顔に、胸の奥が切なく締め付けられる思いがしたのは、親に信じられているのだと感じたからだった。

その日から、水穂の無茶な運転は影を潜めた。



「水穂、飛ばしすぎだ。俺を殺す気か」



神崎の声が静かに響く。

アクセルに置いた右足を少し浮かせた。



「神崎さんと天国へ道連れなんて、私も嫌です」


「俺だって嫌だね。もっとイイ女と一緒がいい。お互いまだ死ねないな」



神崎の水穂への言葉は乱暴だが、指図し過ぎず程よい頃合で声を掛けてくる。



「お嬢様育ちに似合わない運転をするな。アンタ、見かけによらす苦労したんだろうな」


「そう見えますか?」



クラッチとブレーキを巧みに操りながら、滑るように急カーブを曲がる。



「ほら、その足さばき。普通のお嬢さんには真似できないね。

ドリフトも出来るんだろう? ギアの入れ方を見てればわかるよ」


「それって褒めてるんですか、それとも呆れてるんですか?」


「両方だよ」


「褒め言葉だけいただいておきます」



神崎と一緒に行動するようになり2ヶ月が過ぎた。

出会った頃は、何を言われても素直に受け取れず、いちいち言い返していたが、最近は神崎の物言いにも慣れ、適当に受け流すことができるようになっていた。