今朝のニュースでは、首都圏は夜半から雨が降るでしょうとテレビで見慣れた顔の気象予報士は告げていたが、早めに降り出した雨がレストランの窓を濡らしていた。

ヨーロッパの民家を模した店内はほの暗く、古めかしい造りの窓にかかるカフェカーテンの隙間から、水穂は予報がはずれた空を見上げた。

犯人グループの拠点であっただろう部屋は見事に痕跡が消され、何一つ手がかりはつかめなかった。

今週は取り壊しが延期されたビルに出向き、籐矢と進入経路をたどりながら、思い出される限りの記憶をもとに捜査報告書の作成に専念した。

闇の中の二人の行動は ”無駄にエネルギーを消耗しないために、動かず救出を待った”

室長には、そう報告したのみで、詳細はそれぞれの胸に収めたまま語られることはなかった。 

耐え難い恐怖と不安の中、籐矢と抱き合うことで意識を保っていたあの夜。

それは、恐怖に打ち勝つための抱擁だとわかっていた。

親しみや愛情といった甘い感情は存在せず、抱擁は希望を失わないための手段であり、不安を隠さない籐矢の顔は水穂が初めて見るものだった。


『今はおまえを頼りにしている……』


弱さを見せるように吐き出された言葉に、自らも籐矢を強く抱きしめることで応えた。

籐矢とかわした情熱的なキスの感覚が、ときおり唇によみがえり水穂を困惑させた。

思い出すたびに、指先がジンと痺れたように電流が走る。

忘れなくてはと思うのに、籐矢と触れあった夜の記憶は日々鮮やかになっていく。

いままた指先に同じ感覚を覚えて、痺れを治めるように唇に指を押し当てた。

ここ数日、何度となく繰り返した動作を、水穂は無意識にしていた。



「香坂さん……香坂さん、水穂……さん」



籐矢に名を呼ばれたのかと錯覚した体はビクンと震え、意識を元の場所に呼び戻した。



「あっ……ごめんなさい あれ? 栗山さん、いま名前で呼んだ?」


「何度呼んでも反応がなかったからね……これから名前で呼んでもいい?」


「え、えぇ……いいですよ。でも、ちょっと照れくさいかな」


「神崎さんなんて、いつも君のことを水穂って呼んでるじゃないか。僕も名前で呼んでよ」


「神崎さんは誰にでも遠慮がない人ですから。あと、栗山さんを名前で呼ぶのはちょっと……

仕事中にもそのまま呼んじゃいそうです。私って器用じゃないし、ごめんなさい」


「僕はかまわないよ。僕らのこと、みんな知ってるし、いいじゃないか」


「私が嫌なんです。けじめがなくなりそうで、やっぱり……」



まるで自分を拒否されたようだと、そのときの栗山は思った。

籐矢には見せる素直な顔を自分にも見せて欲しいと、いつも願ってきた。

どこか一線を引いたような水穂の態度がもどかしくて、こちらから踏み込むには、まだ付き合いが浅いようで、強気になれない自分にも腹が立った。



「ルッコラってゴマの味がしますね。サラダは食べたことがあるけど、炒めても美味しい」



気まずさを隠すように、料理の味に話題を変える水穂が可愛くもあったが、同時に彼女に上手くかわされたようで苛立ちも覚えた。



「ルッコラってハーブだろう? 僕は苦手だな。日本人には馴染まない味じゃないかな」


「そうですか? 神崎さんは好きだって言ってましたよ。向こうにいるとき良く食べたって」


「そう……」



和みかけた空気がまたよどんだ。

「神崎さん」 と水穂が口にするたびに、栗山の胸に痛みが走る。

彼女はここにいるけれど、彼女の気持ちは神崎籐矢の元へいっているのではないか……

そんな馬鹿げた想像をしたくなるほど、栗山は水穂の気持ちをつかみあぐねていた。