「絶対に何かの間違いです!」
 ロベルトは父のリカルド三世に言い切った。
「あのアントニウスが、アレクサンドラ嬢以外の別の女性と結婚の約束を交わしているはずがありません」
 しかし、ロベルトの言葉にリカルド三世は返事をしなかった。
「ルドルフの娘がアントニウスに嫁いでくれれば、両国の関係もより安定すると思ったのだが、間もなく公爵になるルドルフの娘をお払い箱にしたとあっては、ルドルフも引っ込みがつかないだろう。そうなると、イルデランザとエイゼンシュタインの関係にひびが入ると考えるのが正しい見方だろう」
 リカルド三世の言葉にロベルトは頭を横に振った。
「きっと、公爵の叙爵式に間に合うように、アレクサンドラ嬢を帰国させたかったのでしょう」
 楽観的なロベルトの言葉に、今度はリカルド三世が頭を横に振った。
「私がイルデランザに赴き、アントニウスの気持ちを確かめます」
「ならん。イルデランザは開戦中。平時ならまだしも、開戦中の国に王太子を向かわせるわけにはいない」
 リカルド三世の決定は絶対だった。
「ですが父上・・・・・・」
「ロベルト、お前は自分の花嫁をしっかりと捕まえておくことだ。このゴタゴタのあおりを受けて、ジャスティーヌが心を変える可能性もある」
 父の言葉にロベルトはギョッとした。
 あの噂の一件以来、何とかジャスティーヌの心を繋ぎ留めてはいるが、もはやジャスティーヌからは以前のような明らかな、溢れるようなロベルトへの想いは感じられなくなっていた。
「叙爵の式典が終わり、めでたくアーチボルト伯爵がアーチボルト公爵になったら、祝いの品を持って訪問したいと思います。何しろ、公爵という事はもう王族の一員ですから、かしこまらず、心おきなく訪問できます」
 ロベルトは言うと、父、リカルド三世の前を辞した。


 執務室へと戻り、脇に控える侍従長が差し出す書類に次々と目を通しているつもりだったが、実際、全て内容はロベルトの前頭葉から後頭葉へと、そして頭の外へと流れだしているだけで、重要な治水整備の書類も、隣国との国家交流に関する報告書も、経済動向の報告書も記憶には残らなかった。

(・・・・・・・・アントニウスが、わざわざ戦時下のイルデランザまで赴いたアレクサンドラ嬢を労い、愛を語らうのでもなく、ただ帰国させただと? あのアントニウスに何があった? 怪我を負って、昏睡状態にあった間に気持ちが変わったと言うのか? ただでさえ、ジャスティーヌが落ち込んでいるというのに、アントニウス、何という事をしてくれたんだ!・・・・・・・・)

 怒りも露わに、ロベルトは読んでいるふりをしていた書類を机に叩きつけた。
「殿下、如何なされました?」
 長年使える侍従長は、少しくらい激しい感情表現をしたところで、驚きもしなければ、動揺もしない。
「こんなことよりも、大切な事がある」
 怒りを滲ませたロベルトの言葉にも、侍従長は動揺したりはしない。
「殿下、国際関係と国内の治水、経済動向の現状を把握することは、王太子としての重要な役目でございます。これよりも重要な事とは、如何な事でございましょうか?」
 ここにきて、ロベルトは初めて父が長年使える侍従長に如何に苛立ち、国王となった際に自らの侍従長とはせず、王太子付きの侍従長として自分の傍から離したのかをやっと理解できた気がした。
「仕事は中止だ。席を外せ、一人にしてくれ。全員、この執務室から出ていけ!」
 既に、ロベルトの怒りで震えていた侍従たちは、脱兎のごとく執務室から逃げ出したが、侍従長だけが、ただ一人『殿下、失礼いたします』と優雅に臣下の礼をとり、いつもと足取りを変えることなく、余裕の態度で執務室から出ていった。
 残されたロベルトは、王太子である自分の紋章が刻まれた便箋を取り出すと、怒りを込めてアントニウスに書簡を認めた。
 書きたいことは山ほどあり、最初は正式に婚約もしないままアレクサンドラを帰国させたアントニウスの非道を酷評し、それから付け足しのように回復したことの喜びを伝えた。そして、最後はアントニウスのせいとは言わないが、自分とジャスティーヌの間に思いもよらなかった亀裂が入っていること、それにこのアレクサンドラ帰国が及ぼすであろう悲劇を書き連ねた。
 十数ページに及ぶ長い書簡を掻き終えてから、ロベルトは自分とジャスティーヌとの不仲までアントニウスのせいにしようとしている自分に虚しさを感じた。
 あの日、ホーエンバウム公爵邸の図書室でジャスティーヌと幼子の遊びのような婚約を交わしてから、ロベルトは幾度となくそれがただの子供の遊びではなかったかと、思い起こしては自分の気持ちに嘘はないと、美しく魅力的な女性になっていくジャスティーヌを見つめながら、いつも他の誰かにジャスティーヌを奪われてしまうのではないかと思いながらも、時々ジャスティーヌが送ってくる熱い視線を感じては、それが気の迷いでも、単なる子供の遊びでもないと、確信することができた。
 アレクシスがジャスティーヌの傍にいつも寄り添うようになって、ジャスティーヌがアレクシスに想いを寄せているのではと不安になり、アレクシスの『僕のジャスティーヌ』という不届きな言葉に思わず決闘を申し込みそうになったりしたものの、アーチボルト伯爵にさりげなく探りを入れると『そんなことは絶対にありえない』と『アレクシスは単にジャスティーヌを守るために傍に居るだけだと』説明を受け、あの人騒がせな見合いの騒動の後、ジャスティーヌと相思相愛であることを再確認出来てからこの方、こんな不安や絶望に、ましてや婚約解消の危機に見舞われるなどとは、考えたこともなかった。
 一度は捨ててしまおうかと思ったロベルトだったが、やはり自分の想いの徒然もアントニウスには理解してもらいたいとばかりに、分厚い封筒に封蝋を落として王太子の印を刻んで閉じた。
 侍従長を呼び戻し、この手紙を至急で送らせるべきところだが、ロベルトは手紙を手に執務室を後にした。
 本来、王太子が自ら足を運ぶようなところではないが、万が一にもこのような外しい内容の手紙を読まれたりはしたくなかったので、自ら王宮の端にある書簡を取り扱う者たちが控えているところに足を運ぶと、驚いた全員が臣下の礼をとり、話もできない状態になったので、ロベルトは仕方なく全員を強制的に立ち上がらせ、一番の早馬使いであるという男に封筒を預けた。
 男はロベルトの見ている前で旅立ちの支度を整えると、封筒をしまい、そのまま王宮から走り出ていった。行先は厩舎、そこで一番の早馬を駆りイルデランザのアントニウスの所まで行くのだ。
 男を見送ったロベルトは、再び自分の執務室に戻ると、しぶしぶ侍従長を呼び、近衛隊隊長のハインリヒを執務室に呼ぶように命じた。


 姿を現したハインリヒは、『またですか?』とでも言わんばかりの表情でロベルトの事を見つめた。
「婚約者がいると言っていたな?」
 突然のロベルトの質問に、ハインリヒは驚いたような表情を浮かべた。
「はい。殿下の挙式の日程が決まりませんので、父が殿下の挙式の日取りが決まってから日取りを決めると申しております」
 ハインリヒの言葉を聞きながら、いまさらながらに、王太子というものは窮屈なものだとロベルトは思った。
 イルデランザがポレモスと開戦し、アントニウスが負傷したことを受けて延期されたロベルトの挙式の日取り、それに民は影響される。特に王宮に仕えている者ならば、影響は顕著で、もしこのままロベルトの挙式の日取りが決まらず、無期限で延期となったりでもしたら、きっと哀れなハインリヒは挙式の日取りを決められずにロベルトを恨むだろうと、ロベルトは思った。
「そうか、お相手は健勝か?」
「はい。式の準備をゆっくりできると、色々な小物を手作りにしたりと、楽しんでおります」
「それは、良かった。ところで、やはり婚約していても喧嘩をしたりするのか?」
 ロベルトは思わず聞いてしまい、視線をハインリヒから逸らした。
「それは、時にはございます。任務を優先しすぎるとか、気が利かない男だとか、殿下とは違い良く言われております。何しろ、ジャスティーヌ嬢のように、容姿端麗、語学にも政治にも通じ、公私ともに殿下のパートナーになれるような女性ではございませんから。ただ、可愛いだけが取り柄の娘でございます」
 ハインリヒは照れ交じりに言った。
「ジャスティーヌ嬢のように、殿下のために育てられたような、素晴らしい女性とは並ぶべくもございませんが、自分にとっては似合いの相手だと私は思っております」
 胸を張って、相手のレディが自分にふさわしい相手だと口にすることができるハインリヒが羨ましかった。王太子とし言う立場では、こう手放しにジャスティーヌの事を褒めることも、自分に似合いの相手だと公言することは許されない。
 常に、公的立場である事を理由に、過度な感情表現も、ジャスティーヌのすばらしさを自慢することも、二人が互いに惹かれあっているのだという事をひけらかすことは許されなかった。
「殿下、制服をお使いになられますか?」
 ハインリヒの問いに、ロベルトは頭を横に振った。
「私として会う事が叶わないならば、ジャスティーヌに逢う資格はない」
「ですが、殿下のお立場では、伯爵邸に赴くことは難しいかと思われますが・・・・・・」
 ハインリヒの言葉に頷くと、ロベルトは寂しそうに笑った。
「頼みがある。庭師に言って、プリンセス・ジャスティーヌを一枝、ジャスティーヌに届けてほしい」
「かしこまりました」
 ハインリヒは敬礼すると、ロベルトの執務室を後にした。

(・・・・・・・・確かに、行儀見習いの間、王宮で二人きりになることはなかった。だが、ハインリヒの制服を着て、ハインリヒのフリをしてアーチボルト伯爵邸を訪れていたことを誰かが感づいていたら、あの噂を耳にしたとき、それが事実だと思って面白おかしく噂を広めたことだろう。だとしたら、それは、私の愚かな行動がジャスティーヌを苦しめたと言える・・・・・・・・)

 ロベルトは大きなため息をつくと、天井を仰ぎ見た。

☆☆☆