マリー・ルイーズとアレクサンドラの馬車の旅は、さすがにアントニウスやミケーレが経験したような強行軍ではなかった。
 しかし、最初の夜は馬車の中で仮眠を取るとし、馬車の一行はエイゼンシュタインとイルデランザの国境を目指して疾走した。
 アーチボルト伯爵家の馬車とは違い、イルデランザを往復する長旅のために用意されているマリー・ルイーズの馬車の乗り心地は素晴らしく、激しい揺れを感じることもなかった。
 リカルド三世の妹ともいえるマリー・ルイーズと狭い空間に向かい合って座ることに緊張していたアレクサンドラも、『長旅です。体を休めなさい』と言うマリー・ルイーズの言葉に少し緊張が解け、やがて馬車の揺れに身を預けるようにしてマリー・ルイーズが眠りに落ちると、アレクサンドラもそれに倣うように眠りに落ちていった。


 陽がのぼり、朝の訪れが目にも明らかになった頃、アレクサンドラが初めて見る国境の検問が近づいてきた。
 当然のことだが、マリー・ルイーズ一行の馬車は全て王家とザッカローネ公爵家の紋章を掲げているので、国境の警備は馬車を停めることなくそのまま通してくれた。

「アレクサンドラさん、イルデランザ公国にようこそ」
 マリー・ルイーズの言葉に、アレクサンドラは窓の外に広がるイルデランザの風景を見つめた。
 車窓に映る森の風景はほとんどエイゼンシュタインの森と変わらなかった。
 地理的に言ってイルデランザとエイゼンシュタインはあまり差がない。ただ、言葉は明確に違っていて、言語学的には同じ言語から派生した言葉と考えられているとジャスティーヌは教えてくれたが、実はアレクサンドラはイルデランザの言葉を理解できない。
 国の北部は石造りの屋敷が多く、南の海岸近くなると、白い漆喰塗りの顕著な建物の作りが多くなると説明されていたが、今馬車が走り抜けているイルデランザの森はエイゼンシュタインの森と見分けがつかなかった。
「もうすぐ、イルデランザの宿場町がありますから、そこで温かい朝食を摂って、少し食休みをしたら再び出発します。今晩は、イルデランザの首都近郊まで進めるはずですから、そこの宿場町で宿を取ります。
 丁寧に説明してくれるマリー・ルイーズに、アレクサンドラはお礼を言うと再び窓の外を見つめながら、ジャスティーヌに借りたイルデランザ語とエイゼンシュタイン語の辞書をぎゅっとハンドバッグ越しに握りしめた。

 マリー・ルイーズの説明通り、間もなくして宿場町に到着すると、馬車からアレクサンドラ達だけでなく、同行する使用人達もそれぞれの馬車から降り、門構えもしっかりとした古城のような佇まいの宿屋の紋をくぐった。
「これは公爵夫人! お迎えに参らず、大変失礼を致しました」
 宿屋の主人は慌てて迎えに出てくると、マリー・ルイーズとアレクサンドラをメインのダイニングに案内してくれた。そして、イルデランザ式の食事が出されるのかと思いきや、出てきたのはエイゼンシュタイン式の朝食だった。しかし、片言のイルデランザ語しかわからないアレクサンドラには、宿の主人がマリー・ルイーズの事を『公爵夫人』と呼んだことと、何かを詫びていることしか理解できなかった。
「私、朝食はエイゼンシュタイン式と決めておりますのよ」
 マリー・ルイーズは言うと、アレクサンドラの先に立ってフォークとナイフを手に取った。
 プレートに乗せられた卵料理とソーセージ、パンは丸い大きなパンを薄切りにしてよくトーストしたものがサーブされ、カップにはミルクたっぷりの紅茶がなみなみと注がれた。
「ここからは、馬を替えて走らせますから、夜の宿に着くまでは走りっぱなしになると思っていてください。もちろん、途中でお昼休憩はとります。もう一度、馬を交換しますから」
 旅慣れたマリー・ルイーズの言葉を頭では理解していたが、それがどれほどの事なのかはアレクサンドラには理解できていなかった。
「ここから、使用人達は先に屋敷に戻しますから、別行動になります」
 マリー・ルイーズの『別行動』という言葉にアレクサンドラは驚いて顔をあげた。
「大丈夫ですわ。アレクサンドラさんのメイドは、私たちと行動を共にしますから、ミケーレをはじめとする他の使用人達は、少し道の悪い街道を外れた近道を夜通し走り、馬替えをして明日の朝には屋敷に入るようにするのです。それで、準備を整えさせて、私たちは明日のお昼ごろに屋敷に着くと、そう思っていただければ問題ありません」
 どう説明を受けても、アレクサンドラにはどうも話をしっかりと理解することはできなかった。何しろ、アーチボルト伯爵家の場合、広い所領を回る場合、父のルドルフとアレクサンドラは馬車に乗らずに馬で先に進み、母のアリシアとジャスティーヌが荷物と一緒に後から馬車で追いかけてくるというのが常だったし、行く先々で替えの馬を用意させることなどできないから、馬の様子を見ながらのおっとりした旅行しかアレクサンドラはしたことがなかった。それに、朝食で出たパンも、アレクサンドラに少なからず衝撃を与えていた。
 支援を受けて豊かになったとはいえ、質実剛健、質素倹約、創意工夫がアーチボルト伯爵家の家訓であり、本来家人は大きなパンの真ん中のサイズが整った部分のみを食べ、両端のサイズが均一でなくなる部分は使用人達が食べることになっていたが、無駄の嫌いなルドルフは端からしっかりパンを食べる人だったし、アリシアもそのことに文句を言う人ではなかった。ただ、ジャスティーヌとアレクサンドラは、本来、真ん中しか正式な朝食には並ばないという事だけは教えられていたが、屋敷以外で朝食を摂ったことのないアレクサンドラにとっては、この朝食が初めての体験だった。
 国が違うカルチャーショックではなく、貴族としては初歩の初歩でカルチャーショックを覚えたアレクサンドラは、これから先自分がアントニウスの看病をしながらザッカローネ公爵家で暮らしていかれるのか、マナーや言葉は大丈夫なのかと、猛烈な不安に襲われるようになった。
「きっと、公爵は驚かれますわね。私がアントニウスの婚約者を同道して帰ると知ったら」
 マリー・ルイーズはいたずらっ子のような笑みを浮かべていった。
「あの、マリー・ルイーズ様、私、イルデランザ語もわからず、イルデランザの習慣もしきたりも存じ上げないのに、本当にお役に立てるのでしょうか?」
 アレクサンドラの問いに、マリー・ルイーズは笑顔で答えた。
「何も心配する必要はありませんわ。屋敷の使用人のほとんどは両方の言葉がわかりますから。それに、アレクサンドラさんは、アントニウスの事を看てくだされば、それで充分ですのよ。ジャスティーヌさんが殿下の婚約者になられたことですし、親戚の家に滞在するつもりで、我が家に滞在してくださいね」
 マリー・ルイーズの優しさに、アレクサンドラは涙が出るほど感謝した。


 マリー・ルイーズの言葉通り、宿場町で食休みをしている間にミケーレ達を乗せた馬車は出発し、残されたのはマリー・ルイーズの馬車と護衛の馬車だけになった。
 アレクサンドラとマリー・ルイーズは馬車で広い幹線道路を安定したスピードで進み、途中お昼休憩を取り、再び馬車で首都近郊の宿場町を目指した。
 首都近郊の宿場町の宿は豪華で、上級貴族御用達と言うのが一目でわかるほどだった。本来ならば、滞在客向けに仮の夜会が催されたりするのだろうが、さすがに開戦中という事もあり、他に滞在客もなく、マリー・ルイーズもアレクサンドラもそれぞれの部屋で夕飯を取り眠りについた。
 翌朝、再び豪華な朝食を摂り出発した一行は、お昼ごろに首都に入った。
 城下町の美しさはエイゼンシュタインと変わらなかったが、飛び交う言葉はイルデランザ語で、アレクサンドラはジャスティーヌにもっと一生懸命に言葉を習わなかったことを後悔した。
 やがて、大きな金色の門をくぐり、馬車が横付けされたのは、アーチボルト伯爵家の二倍以上はあると思われる超豪華な屋敷だった。

「つきましてよ」
 マリー・ルイーズの言葉に、アレクサンドラは居住まいを正すと、深呼吸をした。
「奥様、お帰りなさいませ」
 家令と思われる年配の男性が頭を深々と下げている後ろには、使用人達が一列に並んでマリー・ルイーズを出迎えていた。
「ただ今、もどりました。旦那様は?」
「旦那様は、軍のお仕事でお屋敷を留守にいらしていらっしゃいます」
 マリー・ルイーズがエイゼンシュタイン語で話しかけても、家令はイルデランザ語で返すばかりだった。
「出迎えご苦労です。お客様をお連れしましたから、手厚くお迎えするように」
 マリー・ルイーズは言うと、家令に手を取ってもらい、馬車から降りた。
「奥様、このような時にお客様をお連れになられたのですか?」
 言葉は理解できなかったが、アレクサンドラは歓迎されていないのだと察した。
「そうです。アーチボルト伯爵家のアレクサンドラ嬢です」
「アーチボルト伯爵家のとおっしゃいますと、エイゼンシュタインのロベルト王太子殿下と婚約された、あのアーチボルト伯爵家のお嬢様でいらっしゃいますか?」
「そうです。わかったら、いい加減、アレクサンドラさんにもわかる言葉をお話なさい」
 マリー・ルイーズは言い残して屋敷の中に姿を消した。
「大変失礼いたしました。アーチボルト伯爵家ご息女、アレクサンドラ様でいらっしゃいますか? 遠いところ、また開戦中のイルデランザ公国へ、ザッカローネ公爵家へようこそいらっしゃられました。私、ザッカローネ公爵家の家令を務めておりますミハイル・クレメンティと申します。どうぞ、クレメンティとお呼びくださいませ」
 家令のクレメンティは挨拶をすると、アレクサンドラの方に手を差し出した。
 アレクサンドラはクレメンティの手を取り、優雅に馬車を降りた。
「どうぞ、こちらへ」
 クレメンティはアレクサンドラの前に立ち屋敷の中へと進んでいった。
 遅れてマリー・ルイーズのメイドとライラは慌てて馬車を降り、使用人の使う屋敷の横にある出入り口を通って屋敷の中へと入った。
 アレクサンドラか進んでいくと、ミケーレがアレクサンドラの事を待っていた。
「アレクサンドラ様、私、アントニウス様が回復するまでの間、アントニウス様の執事と、アレクサンドラ様の執事を兼任させて戴きます。追って、奥様よりメイドと下女が指名されるかと存じますが、それまでの間、私がお世話をさせて戴きます」
「あ、ありがとうございます、ミケーレ。なにもかも初めての事なので、よろしくお願いします」
 アレクサンドラがお礼を言うと、ミケーレが先に立ってアレクサンドラを屋敷の奥へと案内してくれた。

☆☆☆