隣国であり、更に血縁関係にある最も親密である同盟国、イルデランザ公国が隣国ポレモス共和国と開戦したことは、戦争を知らないエイゼンシュタインの民に大きな衝撃を与えた。
 事前にアントニウスから話を聞いていたリカルド三世も、王太子のロベルトも、民が受ける衝撃にどのように対処するかを迫られ、表向きは国の要職にも就かず、広大な領地で独立採算制の暮らしをしていたはずのアーチボルト伯爵、ルドルフも毎日のように王宮に参内していた。

「国民の受けた衝撃はただ事ではない」
 リカルド三世の言葉に、ルドルフは深々と頭を下げながら相槌を打った。
「王宮も、王妃だけでは花が足りん」
 リカルド三世の言葉が穏やかならぬ方向に話が流れ、ルドルフはどきりとした。
「既に、見合いの期間は終了している。勅命で始めた見合いの結果が公にならないということは、とかくの噂の種となる」
 すでに、ここ数日、ポレモス共和国とイルデランザ公国の戦況分析の後、さりげなく持ち出された話題だった。
 公には何も発表されてはいないものの、一時、手紙も受け取らずに送り返していたジャスティーヌが、アントニウスの訪問後、手紙のやり取りを再開し、一度はロベルトがお忍びでアーチボルト伯爵家を訪ね、しばらくサロンでジャスティーヌと二人で過ごす時間を持ったが、その後もジャスティーヌは夜会等に出席しようとはせず、両国の開戦とともにイルデランザ公国に身内の多いエイゼンシュタインの貴族達は夜会を自粛するようになり、マリー・ルイーズの手前、王家も夜会を自粛するようになり、エイゼンシュタインからも華やかな夜の社交場は影を潜めていた。

「それでだな、ルドルフ、いい加減そちの娘との事だが・・・・・・」
 連日持ち出される話題に、ルドルフもこれ以上答えを渋るのは難しいと限界を感じていた。
「そのことでしたら、殿下のよろしいようにお計らい戴ければと存じます」
 この日が訪れることは予感していたし、先日の電撃お忍び訪問もあり、ジャスティーヌとは事前に話をしていたので、ルドルフは用意していた答えを口にした。
「まことか? ルドルフ、それはまことか?」
 リカルド三世は瞳を輝かせて問い返した。
 リカルド三世からしてみれば、最も信頼のおけるルドルフの娘であり、同盟六ヶ国の言葉をすべて話せる上、国家間の微妙な情勢にも明るいジャスティーヌをロベルトの妻に迎えられることは喜ばしいことであり、ジャスティーヌが懸念を示しているような、些細な問題など全く気にしてもいなかった。
「はい、娘とも話し合いました。これ以上、殿下をお待たせし、陛下にご心配をおかけすることは時勢に合っていないと・・・・・・」
 ルドルフは控えめに言った。
 しかし、リカルド三世は満面の笑みを浮かべた。
「明日の朝一番に、ロベルトとそちの娘との正式な婚約を発表する」
 その言葉に、ルドルフは『そこまで急がずとも』と言いかけたが、イルデランザ公国とポレモス共和国との開戦以来、ずっと難しい表情を浮かべていたリカルド三世が初めて満面の笑みを浮かべているのに気付き、ルドルフは言葉を飲み込んだ。
 リカルド三世は侍従を呼ぶと、すぐにロベルトを呼びに東宮殿に送った。
「そちの番だ・・・・・・」
 期待に満ちた瞳で見つめられ、ルドルフはじっくりと時間をかけてカードを引いた。
 いつもならば、カードテーブルを囲み最低四人でブリッジを楽しむところだが、さすがに従妹であるマリー・ルイーズの夫であるザッカローネ公爵が出征している状態で、お忍びのカード会を開くことも憚られ、結局のところ、リカルド三世と向かい合ってカード遊びをするのはルドルフだけになっていた。二人きりのブリッジも回を重ねれば駆け引きが単調になり、そうそう毎回リカルド三世を勝たせるのもリカルド三世の期限を損ねるので、たまにはルドルフも勝たねばならず、勝つたびにルドルフは居心地の悪さを感じていたが、それでもゲームをやめるかどうかを決めるのはリカルド三世だった。
 引いてしまった最良のカードをルドルフは見なかったふりをして流したが、リカルド三世はその手をむんずと掴んだ。
「へ、陛下?」
 戸惑うルドルフに、リカルド三世は反対の手でルドルフの手からカードを取り上げた。
「陛下?!」
「思った通りだ。やはりこのカード、そちの待ち続けていたカードではないか。このカードがあれば一気にそちは上がれたものを、これを流してまで世をわざと勝たせたかったのか?」
 詰め寄るリカルド三世に、ルドルフはしぶしぶ口を開いた。
「ですが、ここのところ、陛下は勝たれていらっしゃらないですから、ここで私が上がっては臣下としての礼に欠けるかと・・・・・・」
「馬鹿な事を! ロベルトとそちの娘が結婚すれば、我らは兄弟も同じ」
「そんな、畏れ多いことを・・・・・・」
「だが、そちと世は、兄弟よりも深い絆、この国を守るという愛で結ばれておるはずだ。世がまだ王太子の頃から、違うか?」
 そう言われると、ルドルフには否定することはできなかった。
「そう仰って戴けるのであれば、光栄の至りでございます」
 ルドルフが言うと、リカルド三世が温かい眼差しでルドルフの事を見つめた。
「世の至らなさで、そちには長い間苦労をさせた」
「何をおっしゃっていらっしゃるのでございますか?」
「妃に言われて気付いたのだが、長年世につくしてくれているそちに、世は礼をなしていなかった」
「そのような事は、ございません」
 ルドルフは慌てて否定した。
「いや、そうであった。めでたく、そちの娘が王族の一員となった暁には、そちに王太子妃の父に見合った席を用意しよう」
「陛下?」
 ルドルフが問いかけたところにロベルトが姿を現した。
「父上、お呼びでしょうか?」
 ぴったりと後ろに付き従う侍従長が、自分に言葉を挟ませない父子に少し悔し気な眼差しを向けていた。
「ロベルト、待って居ったぞ」
 リカルド三世は言うと、ゆっくりと立ち上がった。
「アーチボルト伯爵、また、父が勝ったとゴネていませんか?」
 ロベルトの言葉に、ルドルフは苦笑した。
「やっと、ルドルフから良い返事をもらったぞ」
「父上、本当ですか? いえ、アーチボルト伯爵、本当に、ジャスティーヌが承諾してくれたのですか?」
 思わず、ジャスティーヌの名を呼び捨てにしてしまい、ロベルトは一瞬気まずいものを感じたが、既に二人が幼いころからの婚約者同士である事は両父親共に認識しており、ロベルトが深くジャスティーヌの事を愛しているのだと、笑みを浮かべて歓迎した。
「殿下、お待たせして誠に申し訳ございませんでした。何分、アントニウス様とのこともあり、ジャスティーヌは妹思いなので、なかなか離れがたく、殿下をお待たせしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。何しろ、王太子妃に内定すれば、王宮での行儀見習いで屋敷を離れなくてはなりませんから」
 ルドルフが謝罪すると、ロベルトは大きく頭を横に振った。
「いいえ、伯爵、快くご令嬢との結婚をお許し戴き、ありがとうございます」
「この国に、殿下以外に望むべく相手はおりません」
「ということは、イルデランザ公国なら、アントニウスということですね」
 アントニウスの名前を出され、ルドルフはドキリとした。
「アレクサンドラの事でしたら、どうかご心配なく。あれは、誰にも嫁がぬと申しております。ですから、ジャスティーヌが殿下に嫁いだ後、アレクサンドラを妻に迎え、良からぬ事を企むような輩には嫁がせは致しません。殿下の行き先の不安の種は、私がこの手で刈り取らせて戴きます」
 あくまでも臣下の礼を尽くすルドルフに、ロベルトは一抹の不安を覚えた。
「伯爵、国の大事の前に私事を疎かにしてしまうのは王族も同じ。帰国したとはいえ、アントニウスのアレクサンドラ嬢への想いが変わったわけではありません。どうか、誤解されぬようにお願いする」
「以前は、あれを修道院に送ろうかとも思っておりましたが、いまでは、すっかり修道女も同じ。敢えて送る必要も感じられません。ですが、良からぬ輩があれを利用するというのであれば、私はあれを修道院に送る覚悟はできております」
 ルドルフは静かに答えた。
 ロベルトとしては、従兄の様に思っているアントニウスのために、何とかアーチボルト伯爵のアレクサンドラに対する処遇を『修道院に送る』などという過激な物から穏便な物へと誘導したいと思っていたが、王太子の義理の兄の地位を悪用しようという輩が出ない限り、そのような処置を取るつもりがないということを聞き、少しだけ安心した。しかし、これはロベルトとジャスティーヌの婚約が発表されるまでの様子見と言ってもよかった。今は頭角を現していない者たちも、噂が現実になった後、その野望の矛先をアレクサンドラに向けないとは誰にも保証できないことだったし、それに、アントニウスが戦地に赴いている今、王太子であるロベルトの婚約という国を挙げての吉事が発表されれば、今は自粛ムードで静まり返っている社交界も賑わいを取り戻すことになる。そうすれば、晴れの席にジャスティーヌの姉であるアレクサンドラが姿を現さないというのも不自然になるし、そうすれば今でもアレクサンドラを狙っていると公言して憚らないフランツをはじめとする面々が我こそはと、アレクサンドラのエスコートを申し出ることは優に想像することができた。
「父上、アーチボルト伯爵、私は失礼し、ジャスティーヌに決心してくれたことのお礼を伝える文をしたためたいと思います」
 ロベルトの言葉に、リカルド三世は満面の笑みで頷くと、ロベルトの退出を許可した。
 ルドルフは、臣下の礼をとり、深々と頭を下げてロベルトを見送った。
「ルドルフ、もう、ブリッジはやめだ」
「と、おっしゃられますと?」
「絶対にそなたが、ズルをして世を勝たせることができないゲームに変えるぞ」
 リカルド三世の言葉を聞きながら、果たしてそのようなゲームがあっただろうかと、ルドルフは首をひねった。

☆☆☆