親子の会話もそこそこに、父の書斎を後にしたアントニウスは、まっすぐに自室へと向かう間も、父の言葉が重く心にのしかかっていた。
 参謀とはいえ、陸軍に身を置くアントニウスは、確かに有事の時には、陸軍とともに首都から戦地へ赴かなければいけないという心の準備はできていたが、公爵家の嫡男で大尉という立場上、従者を連れていくことができるということまでは、真剣に考えたことはなかった。
 年老いたミケーレを戦地に連れていくことには抵抗があったが、やはり自分の身の回りの世話をする人間がミケーレでなくなることに、アントニウスは不安を隠せなかった。
 ミケーレを置いていけば、陸軍の新兵あたりが従者として派遣されてくるのだろうが、果たして、うまくやれるだろうかと、アントニウスは不安を隠せなかった。


 自室に戻ると、既にミケーレが遠征の支度と、軍服の支度をして待っていた。
 遠征の荷物のほとんどは、エイゼンシュタインを離れる時にアントニウス自ら荷造りした大切なものが納められた包みと、同じく持ち帰った衣類の中から、軍服を着用しても使うものがより分けてまとめられていた。
「疲れているだろう、ミケーレ。私は、着替えてすぐに大公殿下に謁見し、そのまま陸軍参謀室に向かう。お前は、ゆっくり休んでくれて構わない」
「ですが、私めは奥様より、アントニウス様のお世話を任せられております。どこまででも、お供する覚悟はできております」
 戦争を知らない大国エイゼンシュタイン出身のミケーレを戦地に連れていくことは、やはりアントニウスは憚られた。

 南端は豊かな海に面し、国境を接する国は全て同盟列強六ヶ国で戦というものを身近に感じることのないエイゼンシュタインとは違い、イルデランザは一番の友好国であるはずのエイゼンシュタインとも陸続きなのは一部だけ、南の海側は険峻な崖によってイルデランザとエイゼンシュタインは切り離されている。そして、同じく南の海岸線で国境を接しているポレモスは蛮族と呼ばれる戦好きな民で、しょっちゅうイルデランザの国境線を脅かしてくる。
 観光という意味では、美しい景観であるあの険峻な崖も、イルデランザとしては埋めてしまってエイゼンシュタインと完全な陸続きにしてしまいたいところだが、険峻な崖を作ったのはイルデランザで、貴重な資源を長年にわたり掘り起こしているうちに、両国の間を流れる川沿いの山が険峻な崖へと姿を変えてしまったのだった。

「ミケーレ、戦など、この国にいれば当たり前の事。この歳まで一度も戦地へ赴いたことがないことの方が、イルデランザの民としては珍しいくらいだ。とにかく、手紙は全て屋敷に送る。お前は、私の手紙がアレクサンドラ嬢の元に届くように、しっかりと屋敷で私の帰りを待っていてくれ」
 アントニウスの言葉に、ミケーレは何かを言おうとしたが、アントニウスの真剣な瞳に、それ以上何も言わなかった。
 愛するアレクサンドラをエイゼンシュタインに残し、プロポーズの答えさえもらえぬまま帰国したアントニウスの事を思うと、ミケーレはアントニウスに従うほかなかった。
「では、無事のご帰還を・・・・・・」
「当たり前だ。はやくエイゼンシュタインに戻らねば、アレクサンドラ嬢を誰かに奪われかねない状況だからな。・・・・・・毎日手紙を書くと約束した。もちろん、軍での状況が許せばだが。手紙が届くように、手配を頼む・・・・・・」
「かしこまりました」
 ミケーレの返事を聞きながら、アントニウスは豪奢なコートを脱ぎ捨てると、陸軍の軍服に袖を通した。
 気持ちを切り替えなくてはと思いながらも、アントニウスは文机の椅子に半分腰を乗せる程度の座り方で、手早くザッカローネ公爵家の紋章入りの便箋を取り出すと、アレクサンドラへの手紙を書いた。
 無事に到着したことを告げるだけの手紙なので、華美な愛の言葉も装飾もなかったが、もし少しでも戦に赴く自分の事をアレクサンドラが想っていてくれたらと思うと、やはり最後には愛の言葉を一言なりとも添えておきたいと、ささやかに、そしてシンプルに『この地上のどこにあっても、あなたの事だけを想っています』と添えずにはいられなかった。
 そんな自分が未練たらしいとも思ったが、それでも、もしこの戦で命を落とすようなことがあったら、この言葉を添えなかったことを自分はきっと後悔するに違いないと、アントニウスは少し自嘲気味な笑みを浮かべながら封筒に封をした。
「ミケーレ、この手紙が愛しい人に届くように、頼んだぞ・・・・・・」
 そう言いながら封筒を手渡すと、ミケーレがぎゅっとアントニウスの手を握った。
「確かに、私がお預かりいたします。必ず、お元気で、この年寄りにそのお顔をもう一度拝見させてくださいませ」
 うっすらと涙を浮かべて言うミケーレに、アントニウスは優しく微笑み返した。
「安心しろ。もう一度、あの人の前で愛を囁くまで、何があろうと、このアントニウス、諦めはしない」
「お帰りをお待ちいたしております」
「では行ってくる。荷物は、後で従者に取りに来させる」
 アントニウスは言うと、深々と頭を下げるミケーレを残し、久方ぶりの自分の部屋を一瞥することもなく、扉の向こうの廊下へと姿を消した。
 見送ったミケーレは、預かった手紙を一度アントニウスの文机の上に丁寧に置くと、アントニウスの荷物をまとめた。

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