「これでもかというほど母に、叱られましたよ」
 馬車に乗ると、アントニウスはすぐに砕けた口調で言った。
「叱られた? なぜです?」
 アレクサンドラには理由が思い当たらず、首を傾げて問い返した。
「とても簡単な事ですよ。あなたのせいです」
「私の?」
「ええ、そうです。愛する女性に振り向いてもらえないまま、国に逃げ帰るような息子を持った覚えはないとね」
 アレクサンドラは、アントニウスには心に決めた女性がいたにも関わらず、アレクサンドラの社交界デビューの支度を整える役を買って出たために、相手の女性に誤解されて困っているのだと思うと、アントニウスと二人きりになり、早っていたいた胸の鼓動がおさまり、気持ちが沈んでいった。
「他人事のような顔をしないでください。あの日、言ったはずです。もう、ゲームはおしまいだと」
「わかっています。ですが、私には、あなたに秘密を守っていただくために、どんな犠牲でも払う覚悟があるとお伝えしたはずです。ですから、あなたの・・・・・・」
 あの日は、それなりに抵抗はあっても口にすることのできた『情婦』という言葉は、完全なレディとなったアレクサンドラには恥ずかしくて口にすることが出来ず、そこから先は口ごもることしかできなかった。
「ですから、私の求婚は、ゲームではなく、私の正直な気持ちだと言っているのです」
 あくまでも秘密を握られたものと、秘密を握ったものの関係から抜け出せないアレクサンドラに、アントニウスは少しならず苛立ちすら感じたが、全てはアントニウス自身が原因を作ったことだと思うと、更に自分に腹立たしくなった。
「でも、いま、意中の方がいらっしゃるとおっしゃったではありませんか」
 かみ合わない話に、アントニウスは大きなため息をついた。
「ですから、私が振り向いてもらえない相手は、あなたです。アレクサンドラ。わたしは、あなたの自己犠牲的な気持ちで捧げられるものに興味はありません。私が射止めたいのは、あなたの心です」
「でも、あの晩図書室で・・・・・・」
 アレクサンドラ羞恥心で顔を真っ赤にしながら言った。
「あの晩は、まさに蛇の生殺しと言うものでした。母の名に誓っていなければ、あなたを抱きしめてしまっていたかもしれません。思いとどまるのに、どれほどの理性が必要だったか、レディのレディのあなたにはお分かりにならないでしょう。ですが、私が抱きたいのは、口止め料として差し出されるあなたではない。心から、私を想い、愛してくれるあなたです」
 あまりにも露骨な言葉に、アレクサンドラは真っ赤な顔をしたまま言葉が出ず、両手で口を覆った。
「あなたが他に好きな男がいるというのなら、話は別です。例えば、毎日通っている教会の若い神父とか・・・・・・」
 アントニウスの言葉にアレクサンドラは目を見開いた。
「伯爵は、あなたが幼い頃から知っている老神父しか教会にはいないはずだ思っていらっしゃるようですが、私は知っています。あなたの懺悔を聞いているのは、老神父ではなく、若い神父だということも」
「それは、違います。私はフェルナンド神父に、自分が男装していたことを懺悔しようと教会に通っていたのです。でも、どうしても、自分の口から秘密を誰かに話すことが出来ず、それで毎日のように通っていたのです」
「では、あの若い神父に会いたくて通っていたわけではないと」
「もちろん違います。とてもお優しい方で、私を慰めては下さいますが、そのような気持ちはありません」
 アレクサンドラの『慰める』という言葉に、アントニウスがピクリと反応した。
「ちょっと待ってください。懺悔できていないのに、神父はどうやってあなたを慰めたのですか? 優しく手を握って? それとも、神の慈悲の代行者としてあなたを抱きしめたのですか?」
 嫉妬にかられると、人間と言うものは完全に冷静さを失うとはこういうことだった。神父が信者に触れたり、抱きしめたりすることなど通常はあり得ないうえ、大聖堂の枢機卿ならまだしも、所領の小さな教会の神父が領主の娘であるアレクサンドラに触れることなど、許されるはずもないことをわかっているはずなのに、アントニウスはフェルナンド神父がアレクサンドラに好意を抱いているのではと疑わざるを得なかった。
「そんなことは、あり得ません。告解室は壁で仕切られているのですよ。それに、そとにはメイドのライラが控えているのですから、そのような不埒な事を神父がなさるはずがありません」
 全面的に神父の味方に回るアレクサンドラに、アントニウスはやはりアレクサンドラの方が神父に想いを持っているのではと思わざるを得なかった。
「では、どうやって慰めたというのですか?」
「求婚を断ることは、罪ではないと」
「は? え? いま、なんと?」
「ですから、求婚を断ることは、罪ではないと」
「求婚を断るたびに罪に問われていたら、ジャスティーヌ嬢など、地獄行き確定ですよ」
 アントニウスは冗談めかして言った。
「それから、正式に婚姻を交わしていない男女が肉欲によって結ばれることは神が最も憎まれる罪の一つだとも」
 アントニウスの顔が一瞬のうちにひきつった。
 自分から話した覚えはないが、実際、エイゼンシュタインで散々浮名を流したアントニウスには、『神が最も憎まれる罪の一つ』を数え切れないくらい犯した覚えはある。しかし、いまさらそのことを持ち出されるとは、まったく考えてもいなかった。
 アレクサンドラに嫌われた原因がそこにあるのかと思うと、アントニウスの背中を冷たい物が流れていった。
「ですが、神は罪を憎まれても、その罪を悔い、行いを改めようとするものを温かくお迎えくださいますとも、仰ってくださいました」
 さすが神父、良いことを言うと、アントニウスは胸をなでおろした。
「神父のお優しい言葉が、私を慰めてくださったのです」
 アレクサンドラはかすかに瞳を潤ませていった。
「アレクサンドラ、これからは、私があなたをお慰めします。どのようなものからも、私がお守り致します」
 アントニウスの言葉に、アレクサンドラは潤んだ瞳でアントニウスを見上げた。
 紅を塗られた形の良い唇が目の前に迫り、アントニウスは口づけたいという欲望を理性を奮い起こしてねじ伏せた。
「あなたとの事をこのままにして国へ逃げ帰ることは許さないと、母から言われました」
「では、マリー・ルイーズ様も、秘密をご存知なのですか?」
 アレクサンドラは焦って問いかけた。
「いいえ、母が知っているのは、私があなたに求婚して断られたことだけです」
 それは、先日アレクサンドラ自身が教会の告解室で話したことだった。
「何度でも、何度でも、あなたが振り向いてくれるまで、本当にあなたが私を想ってくれるようになるまで、私は絶対にあなたの手を放しません」
 驚いてアレクサンドラはアントニウスの事を見つめた。
「覚悟してください。あなたが出席される舞踏会やサロンには、必ず私がエスコートします。このことは、既に伯爵の承諾を得ていますから。私以外の誰とも、例え相手がロベルトだったとしても、あなたと踊らせはしません」
 情熱的な瞳で見つめられ、アレクサンドラは心臓が早鐘のように打ち、胸が苦しくなった。
「でも、なぜ? なぜ、私なのですか?」
 アントニウス程の立場であれば、女性はより取り見取り。確かに、イルデランザ公国のように、自由恋愛が認められず、基本的に親の決めた相手と大人しく結婚することがしきたりとなっている国であっても、男勝りで、にわか作りのレディのアレクサンドラよりも、もっと将来の公爵夫人に相応しい女性は沢山いるはずだし、エイゼンシュタインにも、その座を狙っている女性は沢山いる。
「答えは簡単ですよ。それは、あなただからです」
 アントニウスは笑顔で答えたが、レディとしての経験が短いアレクサンドラには、その意味をしっかりと理解することはできなかった。
「今日は、とりあえずお屋敷にお送りし、舞踏会の前にお迎えに参ります。絶対に、ジャスティーヌ嬢を迎えに行くロベルトの馬車に乗って行ったりなさらないでくださいね。そんなことをしたら、ロベルトに決闘を申し入れますからね」
 アントニウスは念を押すと、優しい笑顔をアレクサンドラに向け、そっとアレクサンドラの手を取った。
 気づけば、馬車は既に伯爵邸の門をくぐり、車寄せを目指して減速し始めていた。
 馬車が正面に停まると、御者が扉を開け、まずアントニウスが降りた。そして、アントニウスが恭しく差し出す手をとり、アレクサンドラはゆっくりと馬車を降りた。
 玄関前には家令が迎えに出てきており、アントニウスは伯爵から申し付かり、アレクサンドラを王宮より送り届けに来た旨を伝え、名残惜しそうにアレクサンドラの手を放した。
「ありがとうございました、アントニウス様」
 アレクサンドラがお礼を言うと、アントニウスは笑みを浮かべ『では後程』と言って馬車に乗り込んだ。
 馬車が走り去っていくのを見送る家令と一緒に馬車を見送ってからアレクサンドラは屋敷の扉をくぐった。


「おかえりなさいアレク!」
 中に入った瞬間、アレクサンドラは飛びつくようにして抱き着いてくるジャスティーヌをよろめきながら抱きとめた。
 みっちりとレディたるものという短期集中のスパルタ教育を受けたアレクサンドラからすると、家の中で過ごす時のジャスティーヌの方が自分よりお転婆に感じられる今日この頃だった。
「すごいわ。本物のレディよこれで!」
 ジャスティーヌの言葉は、普通なら尋ねるであろう『緊張した?』や『国王陛下からお言葉は戴けた?』といったありふれたものではなかった。
「そうだね。これで、私もレディとして認められたってことよね」
 すっかり『僕』という自称も使わなくなり『私』という言葉が舌になじんできた。
「とりあえず、着替えましょう。少しリラックスしなくちゃ」
 はしゃぐジャスティーヌに手を引かれ、アレクサンドラは階段を上った。

☆☆☆