終夜(しゅうや)

 あの頃には気付かなかったことが、今になって分かる。
 ショックを受けて涙を流しても、もう、戻れない。あの頃の思い出を、繰り返すことはできない。
 
 それが、今になって分かった真実だった。
 語らない仁に代わって、私は回想を続ける。

 少し臭いが気になったため、私は、自分が着ていた男物のYシャツを脱衣籠に投げ入れながら独り言を言った。

「今度、買いに行かなくちゃ。私服なんて、数えるほどしか持っていないし、通販で一緒に買ってもらうのも変だし。」

 自分で着る服なのだから、自分で選びたい。
 それに、最近は買い物に行こうと言う意欲が薄れている。
 余計なことばかり気になって、それどころではないのだ。

 そんなことを考えながら、私は狭いバスルームに入った。
 タイル張りの床の奥にステンレスのバスタブが据えつけられており、見た目は古いが、傷や汚れは少ない。
 私は蛇口を捻り、浴槽にお湯を溜めていた。
 バスタブの底にお湯がぶつかり、音が少しずつ変わる。
 湯気が浴室内に篭り、少し、視界が曇ったことまで思い出すことができた。

 だけど、その後のことは覚えていない。
 あまりに普通すぎて、日常生活の中の出来事として、記憶に残らずに消えてしまった。

「もう、いいや。この時のことも、覚えていないから。」

 そう呟き、私は、もっと昔のことを思い出すようにした。
 そうすれば、少しは罪悪感も薄れるかと思い、いつの日のことか思い出せないようなことを、無理に思い出そうとしていた。