「香織さん、ちょっとだけ時間がかかっちゃうかもなんだけど」

 嬉しそうにピアノの鍵盤を叩いていた香織さんに、思いきって声をかけた。

「なぁに?」

「俺の力がもう少し上がれば、そこにある大きなピアノが出せるかもしれないんだ。それまで待っててくれないかな?」

 こんなことを幽霊に頼むなんて、すごく情けなさ過ぎる――。

「分かった。私、待ってるから。優斗くんが大きなピアノを出してくれるの。それまでこの小さいピアノを使って、片手ずつで練習しておくね」

「香織さん……。ありがと」

「ううん。しばらく弾いてなかったから、忘れちゃったところもあるんだ。だから、良かったかもって思っちゃった。優斗くん頑張ってね」

 にっこり笑って俺の両手を掴もうとしたけど、するりとすり抜けてしまった香織さんの手。

「触れたいと思うと、触れないのかな私……」

「だっ、大丈夫! 気持ちは伝わったし俺、頑張るから。そこら辺にいる幽霊をたくさん浄化しまくって、力つけて戻ってくる」

 掴み損ねてくれた両手に拳を作って頑張る姿をアピールし、勇んで音楽室を飛び出した。

 泣き出しそうな顔を笑顔にしてあげたい。彼女が望む大きなピアノで思いっきり演奏させて、喜ばせてあげたい――。

「まだ力は残ってる。とにかくギリギリまで頑張って早いトコ、ピアノを出してあげなきゃな」

 教室に寄ってカバンを肩にかけてから、決意も新たに生徒玄関へ向かって歩いた。

 バッタバッタと幽霊を浄化する様を想像し、口元を綻ばせながら一歩外に出たのだが――。

「最近自分の力量が分かってきてる浄霊をしてると感心してる傍から、いきなり何をやってんだい。呆れて物が言えないね」

 帰宅した俺を見て、あからさまな文句を言い出した母親。残念なことに、反論ができなかった。

「ひぃふぅみぃ……。それにしても、あちこちから拾って歩いたみたいだね。後始末する私のことを、少しくらいは考えてちょうだいな」

「ご、ごめんなさい」

 はじめの頃のように這いつくばることはなかったが、何体も憑けて動くのはやっぱりしんどい。

「優斗お前、何か勘違いしているんじゃないのかい?」

 仏壇の蝋燭に火を点けて、左手に数珠をかけてから俺に視線を合わせる。

「勘違い?」

「浄霊の数をこなせば早く力がつく。なぁんて馬鹿なことを、単純な性格のお前だから考えついたりしたんだろ」

「……考えてた。違うのか?」

 渋い顔をして言ったら、うんざりした顔をしながら頭を抱える。

「一体、誰に似たんだろうね。お父さんも私も、そんな単純な性格していないっていうのに」

「顔は、父さんに似て良かったと思ってるよ。じゃなきゃ、顔を隠して歩かなきゃ――」

「あぁん!? 何だって?」

 言うなり手に持っていた数珠を、俺の首にぐるぐると巻き付けた。

「ちょっ!? ごめっ……死ぬ死ぬっ!」

 実の息子を、あの世に送るつもりなのか!?

「こんな顔でも、イケメンの父さんは貰ってくれたんだよ。見た目より中身なんだからね」

「ひ~っ、ごめんなさいっ」

 中身もかなり、問題アリだと思うんだけど――。

 なぁんてことを言った日にゃ、間違いなくあの世行きだ。黙りこんで体を小さくし、その場に正座した。

「質の良い浄霊をすること。これが自分にとっても相手の霊に対しても、いいことだからね」

「質の良い浄霊って?」

 今までしてきた浄霊じゃあ、ダメなんだろうか?

「お前、がむしゃらに勉強して全て頭の中に入るのかい?」

 浄霊の話からいきなり勉強の話に変換されて、うっと言葉に詰まった。日頃の勉強の態度についてのツッコミを、今まさにしようと企んでいるんだろうか?

「全部は無理だけど、それなりには何とかなってるよ」

「そのわりには、成績に結びついてないけどねぇ。それが数字で、結果となって表れているだろう?」

「……分ってる」

 ガックリと項垂れた俺に、カラカラ声をたてて笑ってくれる母親。

「浄霊も同じさね。確かに数をこなせば経験値にはなるけど、私らはゴーストバスターじゃないんだよ。あの世に霊魂を、しっかりと送り出してあげなきゃならない立場なんだからね」

 そして言葉にした質の良い浄霊を、俺が連れ帰ってきた幽霊達にしてあげるのを、ただ黙って見ていた。

 力も経験値も何もかも足りない、自分がもどかしい……。悔しくて、下唇をぎゅっと噛み締める。

「何、情けない顔してんだい? 悩み事でもあるなら相談にのってやるよ」

 言いたくはない。なぜなら自分の力で解決したかった。だけど今すぐに、俺の霊力が上がるとは到底思えない。だとしたら香織さんは俺が出したあの小さいピアノを使って、無駄な練習を延々とさせてしまうことになるんだ。

「――今日音楽室で、女子高生の幽霊に逢ったんだ。彼女の願いは、ピアノを弾くことだったんだけど……」

 膝に置いてる拳を、ぎゅっと握りしめた。

「音楽室にあるピアノって、あれだろ。グランドピアノって大きいのだっけ?」

「うん。それ」

「お前が出すまでに、何年かかるだろうね」

 何年……?

 母親の言葉に驚いて目を見開くと額に右手を当てて、はーっと大きなため息をつく。

「なかなか口を割らなかったのも、そのコを連れ帰って来なかったのも、自分の手で送り出してやりたいと思ったからなんでしょう?」

「母さん……」

「まったく。親子そろって間が悪いもんだね」

「何がだよ?」

 俺が口を尖らせて言うと、ますます呆れた顔した。

「なんでもないよ。それよりもお前にもできる浄霊の方法は、あるにはある」

 俺に背中を向け、手にかけていた数珠を外して蝋燭の火を消し、後片付けをしながら口を開く。

「優斗の中に、彼女を入れてあげるのさ。言わば憑依っていうヤツ」

「ひ、憑依!?」

 思わず、すっとんきょうな声をあげてしまった。それって、すっごくレベルの高い技に思えるのに。

「何、怯えた顔してんだい。情けないコだね」

 あ~やだやだと言いながら立ち上がるなり、躊躇なく俺の頭を殴った。

「いてっ!」

「そのコを自分で送り出すんでしょ。しっかりしなさいな」

 母親は腰に手を当てて、俺を見下ろしながら笑いかけた。

「今のお前は対峙する幽霊に対して、強い拒否反応を起こしている状態なんだ。それを解けば簡単に憑依してもらえる。だけどね……」

「なに?」

「何度も言うけど、同情は禁物だよ。憑依されることによって、霊の思考がダイレクトに自分の心の中へ沁み込む様に入ってくる。痛みも悲しみも全部。それを感じ取りながら、しっかりと己を保っていなければならないんだ」

 香織さんの心を感じとる――

「乗っ取られないように、できそうかい?」

 それをやらなければ、彼女は音楽室で小さいピアノ相手に、中途半端なメロディを延々と奏でることになる。

「……やってみる。失敗したときは――」

「分ったよ。お前が戻らなければ、私が学校に顔を出せば済むことだから。頑張りな」

 さっきとは違う優しい手つきで、頭をぐちゃぐちゃと撫でてくれた。

「さて、と。できの悪い息子がどこまでやれるか、こりゃ見ものだねぇ」

 嬉しそうに呟いて部屋を出て行くその背中に、無言で頭を下げた。

 半人前の自分がどこまでできるのか。香織さんのために俺は、やるしかないと決意をしたのだった。